く立ち罩めて、水平線を離れたらしい太陽の光が、それに漉されて茫と白んで、宛も磨硝子を透かして見るような明るみとなっていた。そして不思議な景色を展開してみせた。
 先ず、海の方一面に、低く霧が屯している。それから右手の方、川の流に従って、川口から川上へと、霧の枝が伸び出し、松林の据を廻って見えなくなり、更に左手へは、川口から入江の沼の上を、くっきりと蔽うている。宛も水のあるところにだけ凝り集って、水へもぐろうと低く低く渦巻いてるようである。それらの霧と、青い空と、黒々とした松林との間は、凡て茫とした仄白い明るみで、そよとの風の流れもない。そして一面に露の玉が、真珠の色をなして結ばれている。殊に庭の小松の上には、枝という枝にみな、露の玉をつらねた蜘蛛の巣が、きらびやかに懸っている。
 私は驚いてその蜘蛛の巣を眺めた。今迄気付かなかったのが不思議なくらい、松一杯に蛛蜘の巣だった。庭の松ばかりでなく、傍の小松の原もみなそうだった。蜘蛛の姿は見えないが、経二尺くらいのから掌の大きさほどのまで、大小さまざまの網目が、綺麗に露をつらねて重くたるんでいる。
 太陽はなかなか昇りそうにない。霧は動かない。蜘蛛の巣も動かない。私もじっと佇んでいた。そこへ旅館のお上さんが来て、雨戸をすっかり繰ってくれた。室の掃除の間に顔を洗うと、間もなく朝食の膳が運ばれる。
 食後の身体を縁側に置いていると、近くの漁夫、六弥という六十の上になる老人が、半白の眉を笑み動かして、跛を[#「跛を」は底本では「跋を」]ひきひき、一升壜を下げてやって来た。
「今日はひとつ、伝馬船で投網《とあみ》に案内すべえと思ってるが、旦那……。」
 声と一緒に酒の匂いがぷーんとする。
「朝っぱらから、いい景気だね。」
「なあに、そうでもねえですよ、あはははは。」
 日に一升の酒がなければ一日が過せないという老人である。以前は網元をして田地も可なりあったが、みな飲んでしまったそうである。それでも、しっかり者の上さんと息子とがついてるので、日に一升の酒を欠かしたことがなく、その上、そこいらの百姓と違って、毎日米の飯に、どんな不漁でも肴を食う、というのが自慢だった。そして朝っぱらから、一升壜を下げて旅館の酒を買いに来るのである。
「どうだろう、海の模様は。いやに霧が深いようだが……。」
「その霧が問題だよ。こう、ずーっと海面《うみずら》を這えば雨、空せえ上れば天気と、そう、まあきまったもんだが、なあに、今日は大丈夫、今に見ていてごらんなせえ、霧が上へ上へとあがって、鳥の飛んでるのが見えてくるから……。浜に鳥が群れていれば、沖へ魚《さかな》がついていると、そういうわけだよ。」
 そして彼は、これから大漁が続くと予言しながら、漁の少い夏場だけやって来る旅客をけなし、遅くまで居残ってる私をほめ、第一これからは、川に群れてる鯔《いな》にも脂がのってくる、鯔の食える季節は、山に初茸の出る時期の間だけだと、そんなことを話してきかした。かと思うと、今にひどい暴風雨が襲ってくると、波が砂浜を越して川や沼まで一面の海となり、旅館の庭先まで波頭が届くから、それを見なければ、この外海の様子は本当に分るものではないと、そんなことも話してきかした。それから、善良な笑いで長い眉毛をびくつかせながら、旅館の勝手元の方へ立去っていった。
 彼の話の間は気付かなかったが、一人になって眺めてみると、霧は果して一面に濛と湧き返って、それが次第に空へ昇っている。そして鋭い朝日の光が、いつしか横ざまに直射して、蜘蛛の巣の露は消え、その下の叢から虫の声が断続し、裏の松林の中には、晴れやかな小鳥の声が響いていた。
 霧は間もなく空中に消え去って、沼の彼方の砂浜には、海鳥の群が舞い飛んでいた。六弥が云った通りに、今日もやはり大漁らしい。方々で、地引網の曳子を呼び集める喇叭が鳴っている。
 青々とした空と海、澄みきった日の光、その間を爽かな凉風が、葦の穂先を撫でながら、遠い沖から裏の松林の懐へ、軽快に吹き込んでゆく。単衣一枚に肌寒い思いをしながら、私はいつまでもぼんやりしていた。六弥が云ったように、暴風雨が襲来して庭先まで波頭が来る日まで、ここに滞在していようかなどと、頭の遠い奥で考えながら、また、そういう時にでもならなければ、大儀な身体を動かせそうにもないと、胸の遠い奥で感じながら、人気のない旅館の縁側で、半身を初秋の日に曝していた。



底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
   1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2006年5月1日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作ら
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