而も十一谷君は、蝋引きの吸口を必ず用いて、普通の愛煙家のようにじかに吸うことがなかった。或る時、母堂の心配そうな打明話によると、眼や顔をふくハンケチが茶色くなり、便所の朝顔も茶色くなり、襯衣も茶色くなり、つまり全身から煙草の脂《やに》が吹き出してるらしいとのことだった。それには私も驚いたが、本人は平気だった。徹夜をして、黎明の頃に、バットの真髄が分るのだと云っていた。身辺にまきちらしたバットの空箱の、金の蝙蝠と緑の地紙とが、黎明の光に何とも云えぬ色合を呈し、手の指先が金粉に染められていると共に、恍惚たる感を与えるのだとか。それほど好きだったバットも、肺を病んでから、昨年の初夏の頃以来、殆んど止めていた。「吸うと苦しいから自然にやめた。」と云って淋しい顔をしていた。そして十ヶ月後、春子夫人の手で棺の中に、バットが三箱入れられたのである。
 十一谷君は仕事に対して入念だった。「唐人お吉」以後歴史物に手をつけるようになってからは、文字の駆使、表現技法などに、独特の精緻な風格を増してきて、「読者の眼を廻させるスタイルだ。」と或る人に云わせるに至ったが、そればかりでなく、材料の蒐集研究に一方ならぬ苦心を費したものだった。あちこちの古い記録を見て歩いたのは固より、どこで手に入れたか、古い反故るいの一杯つまってる葛籠を幾つか持っていた。古証文、手紙の断片、種々の受取書、いろんな日付や品物の覚え書、そうしたつまらない反故るいの中から、作中人物の実生活を探り出そうとしていた。恐らく、「唐人お吉」に関するものが最も多かったろう。砂中に黄金の粒を探す者のような眼付で、十一谷君は古い反故るいをかきまわしたことであろう。
 そのようにして、碁や麻雀はとにかく、反故の中に埋まり、茶をすすり、バットをやたらにふかして、余り外出もせず書斎に閉じ籠ってる十一谷君の健康を、親しい者たちは早くから心配していたのだった。私もその一人で、対抗療法として酒をすすめてやれと思ったのだが、それは遂に失敗に終った。六七年前のこと、銀座裏に、十一谷君がそこのお上さんをよく知ってる関西流の小料理屋があり、私が石川欣一君を通じてそこのマダムをよく知ってるバーがあって、どちらにも私は何度か十一谷君を引張っていった。また、私の酒飲み相手の芸妓が、今は物故しているが十一谷君を知ってる叔父をもっていて、その叔父を通じて十一谷君と
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