があった。彼はそれを美しいと思った。崇むべき美しさだと思った。変な気持ちになった。
こちらよ、と彼女は素振りで云った。
そう、と彼は眼で答えた。
彼はつとはいっていった。幾代の視線を受けて、彼は額が汗ばむのを感じた。すぐ其処へ坐った。見ると、向うに居る一人の女からお辞儀をされていた。彼も黙ってお辞儀をした。
「この女《ひと》が……。」幾代はいい出して、急に口を噤んだ。彼女は彼に敏子を紹介でもするつもりらしかった。その間《ま》の悪さを自らまぎらすためかのように、彼女は子供の方を向いて、慌てて云い続けた。「これがあなたのお父様ですよ。さあ抱っこしてお貰いなさい。ほんとにね、長い間……。」
彼女はまた口を噤んだ。そしてじっと子供を膝に引寄せていた。
彼はただ、額ににじみ出てくる汗を我慢することに、全力をつくした。やがて眼がはっきりしてきた。幾代の膝に半ば身体をもたして、顔を伏せてる小さな子を、彼は見た。細かな柔かな髪の毛と円っぽい手の爪とが、はっきり眼の底に残った。彼は立ち上ろうとした。その時、子供を見守ってる敏子の眼を感じて、また坐り直した。敏子の方へ顔を向けることが憚られた。執拗に子供を見守ってる彼女の眼が、眼には見ないでもそれと感ぜられるその眼が、一種の威圧を彼の上に及ぼしてきた。彼は睥むように瞳を上目がちに見据えて、子供の前に沢山散らかってる玩具を、一つ一つ眺めやった。一本の糸に繋がれてる大きな兎と亀とがあった。畳の上に平べったくなってる亀の姿が、殊にそのふらふらの長い首が、変に気味悪く思われた。立ち上ってそいつを蹴飛したいような気になった。じりじりしてきた。
「さあ、お父様に抱っこしてごらんなさい。」と幾代は云っていた。
「ほんとにはにかみやさんですね、先刻《さっき》まであんなに元気だったのに……。尤も、はにかむ位の子供の方が、頭がよいと云いますが……。」
子供は幾代の影から、そっと頭を上げて、彼の方を覗いた。そしてつと立ち上って、敏子の膝へ飛びついた。片手にしっかり麦桿細工の箱を持っていた。
「まあ、どうしたのです、慌てて……。」と敏子は云った。
彼は眼を外らした。咄嗟の一瞥で、眼の大きな※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]の短い子だということが、見て取られた。それが醜いもののように思われた。
兼子がはいって来た。彼女は一座をちらりと見廻して、すぐ子供の側へ寄っていった。
「こちらへいらっしゃい。抱っこしてあげましょう。ねえ、お父様も帰っていらしたでしょう。ねえ、いい児ちゃんですね。」
然し彼女が覗き込めば覗き込むほど、子供は益々深く母親の胸に顔を埋めた。
「どうしました、え? 先刻《さっき》はあんなに馴れっこになってたのに……。困りますね。」と兼子は云いながら、没表情な微笑を浮べた。
彼はその方を見やった。そして、子供の上に屈みこんでる敏子の横顔を見た。皮膚のたるんでるような頬、きっとしまった厚い唇、太い首、眉の横の黒子《ほくろ》、……凡てよく見覚えのあるものばかりだった。彼は落付いた気持ちでそれらを眺めた。兼子が来てから敏子の方を平気で眺められるようになった自分の心持ちの変化を、不思議なほどぴたりと感じた。またそう感ずることで、心が落付いた。ぼんやり視線を注いでいると、ふと敏子の耳が眼に止った。後ろにかきあげた揉上《もみあげ》の毛に半ば隠れ、幾筋もの曲線をうねらし、耳垂《みみたぼ》がしゃくれっ気味に締れ上っていた。彼は珍らしい物を見るような気がした。それは記憶の中の彼女とは、全く没交渉なものだった。余りにしげしげと見てはいけない醜い発見物のようにさえ思われた。
彼が眼を外らすと、彼の方をじっと見てる兼子の眼に出会った。兼子は視線を外らさなかった。澄みきった黒い冷かな瞳が、彼の眼を吸い取ろうとしていた。彼はその瞳に眼を定めたまま、彼女の顔全体を見て取った。細やかな薄い皮膚、たるみのない痩せ形な頬、すっと高い鼻、薄い唇から覗いてる真白い歯――彼は彼女の美貌に喫驚した。彼は今迄そういう風に彼女を眺めたことがなかった。……彼は眼を外らして、敏子の横顔をまた眺めた。肌目の荒い肉が白粉に包まれていた。ふふんと鼻で笑いたいような気が、彼のうちに起った。それを自ら気付くと、変に息苦しい所へ心が落込んでいった。彼は我知らず立ち上りかけた。そして咄嗟に誰へともなく云った。
「庭の方へ出ませんか。」
彼は立ち上って障子を開け、縁側から庭へ下りていった。庭の真中に立って深く息を吸い込んだ。いい気持だった。何もかも、依子も、なるようになるがいいや、そういう気がした。
「いやよ、いやよ、お母ちゃん、いやよ!」と泣き叫ぶ声がした。ふり返ってみると、依子が敏子の胸に縋りついていた。幾代が何か云っていた。敏子はじっと首を
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