て行った以上は、敏子が自ら幾代へか瀬戸へか返事をする筈だと思っていた。然るに、あの下劣な永井を間に立てて瀬戸へ談判を持ち込むとは……。体のいい取引に過ぎないのだ。――彼は永井を嫌っていた。あの当事家へ談判をしに来たのも永井だった。父が向うの要求を尋ねると、子供が小学校を卒業するまで月々三十円の仕送りをしてほしいと、ただそれだけのことを切り出すのに、一時間もくどくどと饒舌り続けたそうだった。彼の行いを責むるかと思えば、敏子の方が悪いのだと云ってみたり、また其々の家ではどういうことがあったとか、それも真偽の分らない話を廻りくどく述べ立てて、遂に父の立腹を買ったのだった。父から怒鳴られても永井は平気だった。そしてなお饒舌り続けながら、要求が容れられると、すぐに帰っていったそうである。彼も一度逢ったことがあった。常に問題の中心に触れないで、下らないことをのべつに饒舌り続ける永井を、彼は不思議そうに眺めた。髪を丁寧に撫でつけ、鼻が低く、眼が絶えず動いてる、撫で肩のその姿を見ると、彼は一種の道化――都会が産んだ道化――を見るような気がした。然し道化にしては余りに悪賢こかった。この男が敏子の身を保護してるのかと思うと、他に縁故の者もない孤立の敏子を彼は憐れまずには居られなかった。……然し今、たとい他に人がなかったにせよ、その男を敏子が間に立てたかと思えば、憤懣の念に堪えなかった。恐らく敏子はただ相談したのみではあったろうが、その手中に話を托すとは、余りに凡てをふみつけにした仕業だった。依子の一身は、そんな風に取引されていいものであったろうか?
「その条件を拒んだらどうなるんです?」と彼は云った。
「それはまた話をやり直すまでのことだが、」と瀬戸は云った、「それほどむずかしい条件ではないじゃないか。」
「条件はどうでもいいんですが、永井が間にはいってるのが嫌なんです。」
「なるほど、永井には私《わし》も閉口だ。」
「それでも、これで永井とさっぱり縁が切れるわけだから、却ってよくはありませんか。」と幾代は云った。
「あなた、」と兼子も云った、「いろんなことを云い出すと、なお面倒になるばかりですわ。いつもあなたが云っていらしたように、早くきめてしまった方がよくはありませんか。」
 それは打算的な理屈だ、と彼は考えた。然しそれが最も便利なまた安全な方法だった。取引によって依子の運命に塗られた泥は依子を愛することによって償われる! 俺は二重に依子を愛してやろう、と彼は心に誓った。
 夕食後、彼は瀬戸を送って表に出た。肥った筋肉を狭すぎるような皮膚に包んだ瀬戸の身体は、酒のためになお張り切って見えた。地面に転ったらぽんとはね返りそうに思われた。棒のような足でことこと歩きながら、彼の方を顧みた。
「これですっかりよくなったというものだ。女も時には素敵なことを考えつくものだね。」
「え?」と彼は問い返した。意味がよく分らなかった。
「然しこれからが大事だね。」と瀬戸は構わず云い続けた。「永井でなくても、へまするとお前は誤解され易いよ。」
「永井が何と云ったんです!」
 瀬戸は他のことを尋ねた。
「お前は依子を引取ることを、大変急いでるというじゃないか。」
「ええ。変な風に話がこじれるといけませんから……。」
「然し案外だったろう、余りすらすらと運びすぎて。」
 彼は返辞に迷って、何とも答えなかった。瀬戸もそれきり黙った。暫く行って坂を下りつくすと、瀬戸は俄に立ち止った。
「送ってくるのなら、もういいよ。それに、今晩は家でゆっくりした方がいいだろう。」
 そう云いながら瀬戸は、中々歩き出そうとしなかった。彼も仕方なしに立っていた。やがて瀬戸はこう云った。
「やはりお前に云って置いた方がいいだろう。実はね、永井の奴変なことを云いだしたものだから、私《わし》は怒鳴りつけてやったのさ。奥様に児種がおありにならないとしますれば、敏子もどうせ生涯独身を続けると云っていますから、お側に仕えさしても……。」
「僕の妾に、というんですか。」
「まあそうだね。だから、今後永井も敏子も近づけてはいけないね。勿論敏子は何も知らないのだろう。早く云えば、永井の喰い物になってるんだね。」
 彼は瀬戸の顔を眺めた。街灯の薄暗い光を受けてるその顔は、笑ってるように見えた。
「伯父さん、揶揄《からか》ってるんですか。」と彼は云った。
「ははは、」と瀬戸は笑い出した。「揶揄《からか》われたと思うような心なら、まず安心だよ。然しね、兼子にそんな疑を起させないようにしなければいけない。。それが一番大切なことだ。」
「兼子は僕を信じています。」
「それはそうだろう、夫婦の間だからね。……まあ兎に角、二人で円満にあの子を可愛がるんだね。」
 彼は瀬戸と別れてからも、暫く其処にぼんやり立っていた。謎を
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