れたつまらないことが、なんと鮮明に浮んできたことか、仔猫だとか、綾子と山吹だとか、老婢たちだとか、なおその他のいろんなものまで、湖面の鏡に映った。そして今、その湖面には、一枚の木の葉が、くるりくるりとゆるく回転しながら、湖心の方へ流されていた。方向の定まらぬ風の吹き廻し、そして気紛れな渦巻き。あの木の葉は危かった。いつ沈むか分らなかった。それがそっくり、久子の姿ではなかったか。俗世の渦巻きに巻き込まれて沈んでしまうかも知れなかった。
田宮は倚りかかっていた樹の幹から離れ、足早に湖畔を立ち去った。湖心の眼がなにかしら怖かった。
ホテルの玄関前の広い草原を横切って行くと、澄みきった山水がさらさらと流れてる渓流に出る。その岸のほとりに、檀《まゆみ》の大きな木が茂っていた。黄と紫とに染め分けた小さな花を一杯つけていたが、既に果実を結んでるのもあって、紅い果肉も見えていた。その最も美しそうな一枝を、田宮は折り取って、室に帰った。女中を呼んで、手頃な花瓶を借り、檀の枝を投げ入れた。
黄と紫との二色になってる小さな花の群れ、紅みの見える小さな果実、それを小枝の楕円形な葉裏に眺めると、如何にも可憐だった。田宮はそこにじっと気持ちを集めようとした。心が荒立たないように、湖心の眼が荒立たないように、何かのやさしい情緒がほしかった。
檀の花も実も葉も、なかなか萎れず、艶が褪せなかった。でも、朝夕それを眺めてるうちに、次第に見馴れて、もう一向に面白くもなくなった。丁度その時、万事を託しておいた百合子から電報が来た。
――久子、身モ心モ元気ニナッタ。スグニ帰ッテ来テ下サイ。
田宮は立ち上って、思いきり伸びをした。もう丸沼にも菅沼にも心残りはなかった。死を思うことも止めにして、そしてただ、久子だけは救ってやりたかった。綾子は死んだが、久子は生きていた。
山吹の花のあと、実は結ばないと言われているが、必ずしもそうでないことを田宮は知っていた。少くとも彼の庭の山吹には、褐色の小さな実がいくらも結んだ。花だけでもよろしいけれど、なるべく実を結ぶ花でありたかった。せめて人事はそうでありたかった。自宅の山吹の花は実を結ぶことを思って、田宮は気力が出た。それは感傷ではなかった。彼は直ちにホテルの勘定書を求め、旅行案内をくって帰途の時間を調べ、百合子宛の電報を書き、そして荷物をまとめた。
底本:「豊島与志雄著作集 第五巻(小説5[#「5」はローマ数字、1−13−25]・戯曲)」未来社
1966(昭和41)年11月15日第1刷発行
初出:「群像」
1953(昭和28)年2月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年2月23日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全3ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング