山吹の花
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)檀《まゆみ》
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(例)小説5[#「5」はローマ数字、1−13−25]
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湖心に眼があった。青空を映し、空に流るる白雲を映して、悠久に澄みきり、他意なかったが、それがともすると、田宮の眼と一つになった。田宮の眼が湖心の眼の方へ合体してゆくのか、湖心の眼が田宮の眼の方へ合体してくるのか、いずれとも分らなかったが、そうなると、眼の中がさらさらと揺いで、いろいろな人事物象が蘇って見えた。
それらの人事物象から、田宮は遁れるつもりだった。意識的に遁れるつもりだった。そしてこの山奥の湖畔に来た。だが、どうして、すっかり遁れきることが出来なかったのか。どうして、先方から追っかけて来たのか、こんな処まで。
此処、奥日光の丸沼温泉。上越線の沼田駅から十二里。バスで、畑中の道を走り、峠を越して、片品川の岸に出で、川を遡り、鎌田町から右へ切れて、渓流ぞいに進み、白根温泉を過ぎてからはもう人家はなく、山道を上り上って、丸沼湖畔に辿りつき、その東側を廻って行くと、北岸に温泉ホテルがある。建物は豪壮だが、林間の全くの一軒家だ。
このホテルから、丸沼湖岸を元へ半廻して、山道を上ってゆくと、菅沼湖に達する。湖の東岸に、山の家と称する山小屋があり、その傍にテント村の設備がある。それから先は車の通らない歩道で、金精峠を越して奥日光の湯元温泉に至る。
田宮は丸沼の温泉ホテルに身を落着けた。透明な湯に浸り、朝夕二度の食事に少量の酒を飲み、湖畔を逍遙した。四方の山々、奥深い原始林、なだらかな湖面、すべてが静謐だった。往々にして、リュックを背負った旅人やバスに出逢うと、実に思いがけない感じで、はっとさせられた。虚心が乱されたのだ。それを静めるために、湖水を眺めていると、その湖心に眼があった。それも果して、湖心の眼か、或いは彼自身の眼か。その眼には、過去に葬ったつもりのものが見える。
湖畔の雑草のなかには、黄色の花がたくさんあった。それが、山吹の花の色に通じてくる……。
綾子が病床にある時のことだった。二月の半ばから寝ついて、軽い腹膜炎とのことだったが、それがなかなか癒らなかった。初めはおとなしく寝ていたが、長引くにつれて、さすがに気持の焦れが出て来たらしかった。
「あたし、いつ癒るかしら……。」
ぽつりと言って、父の田宮を縋りつくようなまた訴えるような眼で見上げた。
「そうだなあ……。」
綾子の視線を避けて、障子の腰硝子から庭に眼をやると、その片隅に、一叢の山吹が薄緑の若葉をつけていた。
「あの山吹の、花が咲く頃までには、癒りますよ。きっと癒る。」
「山吹……。」
そう呟いて、弱々しく頬笑んだ。
然し、その山吹の花が咲いても、花が散っても、綾子の病気は癒らなかった。ばかりでなく、次第に悪化していった。彼女は山吹の花のことをもう二度と言い出さなかった。田宮の言葉に希望を繋いではいた筈なのに、花が咲きそして散ってゆくのを見ながら、何とも言わなかった。内心では、諦めの念が濃くなっていったのであろうか。
愚痴一つこぼさず、癒るかとも癒らないかとも聞かず、静かに寝ていた綾子の姿が、山吹の花の黄色に通う湖畔の雑草の花に、湖心の眼を通じて定着するのだった。そしてその処置に、田宮は迷った。
夕頃になると、西の山の端に没した太陽の残照が湖面に流れることがあった。水面とも水中浅くともつかず、ゆらゆらちらちらと、その残照はしばし漂い、そしてあちこちに小さく別れて、次々に消え失せていった。美しくもあり儚なくもあった。
だが、その残照の消えがたに、いやなものの姿も見えた。水面すれすれの水中に、ちらと見えた。
やはり綾子の病中だった。仔猫、といっても、もう可なり大きくなってる赤毛の猫が、どこからかやって来た。迷ったのか捨てられたのか、とにかく野良猫ではなかった。それが庭で何か食べていた。よく見ると、家に飼ってる猫の一匹が吐き出した食物だ。猫というものは、始終体の毛を嘗めるので、その毛が胃袋にたまると、草の葉や笹の葉を呑みこんで自ら胃袋を擽ぐり、飯粒などと一緒に毛を吐き出すことがある。その飯粒の塊りを、外来の仔猫が食べていた。もともと、毒物とか病気とかのために吐いたのではないから、害になるものではないが、それをむしゃむしゃ食べてるところは、浅間しくもあり穢ならしくもあった。きっと空腹だったのだろう。
田宮はいやな気がして、その仔猫を竹箒で追っ払おうとした。ところが図々しい猫で、箒の先でつっ突いてもなかなか逃げようとしなかった。図々しいというより寧ろ
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