物を考える人の姿じゃない。
私はスカーフの中に深々と、頬まで顔を埋めて、ゆるい斜面を湖水の方へ下っていった。道路からそれて、湖岸の砂地に立った。冷々とした空気が湖上から流れてくる。
平田は煙草を取り出して、私にも一本すすめた。ライターの火が螢の光りほどに淡く見える。その明るさの中で、湖面の漣が白銀色に躍り跳ねている。彼方は茫とかすんで、湖中に突き出てる半島にかかえられて、幾つかの灯がある。湖岸のバス道路を一里ばかり行ったところにある小さな町だ。
町といっても、この湖水の神社を中心にして、宿屋や店屋が数十軒並んでる部落にすぎない。三日前、私達はそこへ行ってみた。私としては、もしこの湖水が死所となるなら、この湖水の神社というものも見ておきたかったのである。
神社は普通の、むしろさびれたものだった。ただ、紅葉の季節なので、観光客が雑沓していて、興ざめの感じがした。トラックで乗りつける団体などもあった。――私達は迂濶だったのだ。山上の幽邃な湖水ということだけを当にして、紅葉の季節ということを忘れていた。けれども遊覧の客が多いほど、却って人目につかないかも知れないし、いよいよだめなら、逃げ出すだけのことだと、ひそかに考えもした。
神社の裏手に、嶮しい登り道がある。岩角や木の根を頼りに、匐うようにして登ってゆく。ずいぶん遠い。木立が深くて見通しは利かない。ふいに、断崖の上に出る。下に何があるのか、覗き見ることも出来ない高い絶壁で、鉄の梯子がさがっている。若い人たちが昇り降りしていた。
その鉄の梯子から少し離れた横手に、私達は腰を下した。断崖の中途に生えてる大木の梢が、すぐ眼前にある。真下は深い淵らしい。その深淵が更に深々と広がって、濃藍色の湖面となり、漣もないほど静まり返っている。こちらは湖中に突き出た半島で、対岸もやはり半島。半島の山には、針葉樹が多く、闊葉樹は紅葉し、代赭色の岩肌が絶壁の中に散見される。それらが、とろりとした湖面に影を落している。その辺の湖心の深さ、三百五十メートルほどもあり、水の透明度は高く、しかも美しい藍色なのだ。
私は身をずらして、断崖の縁のところまで出た。
「危いよ。」と平田は言った。私は彼の眼を見返した。彼も私の眼を見たが、すぐに視線をそらした。
細い灌木の幹を、私は片手で握っていた。身内がぞくぞくして、もし手を離したら墜落するか
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