おしいことがある、といいだしました。それは、桜の花に匂《にお》いがないということでした。
「これほどきれいに咲いてるのだから、これに、梅の花のようなよい匂いがあったら、さぞよいだろう」
 その言葉を、正夫の小父《おじ》さんがききとがめました。そして、どうかして匂いをつける仕方《しかた》はあるまいかと、相談しました。するとその人は、植物のことなら何一つ知らないことはないというほどえらい学者で、桜の花に梅の花のような匂いをつけてあげようと、引き受けたのでした。ある薬を桜の幹《みき》に注射するんだそうです。けれど、その薬はたいへん貴《とうと》いもので、たくさんはないから、いちばん立派な大きい桜の木を一本えらびました。
「一本でもけっこうです」と小父さんは叫びました。「それこそ、日本一の……世界一の……桜になります」
 その注射が、今晩なされることになっていました。すると、明日、朝日がさす頃になると、桜の花は梅の花のようなよい匂いをたてるそうでした。
 正夫は私の顔を心配そうにながめました。
「大丈夫でしょうか。注射って、いたいでしょうね」
「そうだねえ……」
 考えてみると、私も心配になってきました。
 けれど、もう仕方ありませんでした。向こうから、小父さんに案内されてあの人がやってきました。シルクハットをかぶり、ぴかぴか光る靴をはき、小さな鞄《かばん》をかかえ、ながい口髭《くちひげ》をぴんとはやし、鼻眼鏡《はなめがね》をかけ、眼鏡《めがね》のふちから一本のほそい金鎖をたらし、それを襟《えり》もとにとめていました。いかにもえらい学者のようでしたが、しかし、その鼻眼鏡のおくに光ってる目が、なんだか気味《きみ》わるく思われました。
「ああ、この木でしたな」
 学者はそこに立って、いっぱい咲いてる花を見あげました。それから、その根本にかがんで、鞄《かばん》をひらきました。しばらくかちゃかちゃやってから、注射器をとりだしました。畳針《たたみばり》のような大きな針がついていました。彼はしばらく、幹《みき》をなでていましたが、いきなり、ぶすりと針をさしました。
 私はぞっとしました。私の手をにぎっていた正夫も、ぎくりとしました。桜の木は、私たちよりもいっそうびくりとふるえて、花がひらひらとちりました。
 学者は反対の方にまわって、も一度、注射の針をぶすりとさしました。花がまたひらひら
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