った。人情として当然のことである。其後、高倉君は再び捕えられ、その足取りによって、三木のところで一夜世話になったことが官憲に知られた。かねて自由主義者として睨まれていた三木は、警視庁に連行され、その思想傾向や余罪を洗いたてるという官憲一流のやり方で、長く留置されることになった。警視庁に連行されたのが三月二十八日で、次に巣鴨の東京拘置所へ移され、それから豊多摩刑務所内の拘置所へ移され、九月二十六日に急死し、死体は二十八日に自宅へ帰った。
 三木が高倉事件に連座したこと、そのことからして実につまらない。然しこのつまらないことが、検事に言わすれば甚だ厄介なことになるそうである。厄介なのは官憲にとってはよい口実となったろう。死体となって帰宅するまで、三木はまる六ヶ月間拘置されたのである。死体としてでなく元気な姿で、もう帰って来てもよさそうだと、誰しも考えていた。その間三木は、どうしていたことであろうか。接見も差入れも許されなかったのである。刑務所側の説明に依れば、三木は警視庁以来、疥癬にかかり、また栄養失調を来し、九月半ばに急性腎臓炎となり、症状が進んで、病舎にあること二日にして急逝したとのことである。拘置所内の皮膚病、殊に疥癬は、ひどく悪質なもので、それが高ずれば腎臓を冒して死に至らしむること、医学上の常識的経過だとも言われる。病舎にあって三木は、付添いの者もなく、寝台の外に倒れていたことが事実らしい。それらのことを、吾々は一切知らなかった。彼が死へ放置されてる間、吾々はただ彼の釈放をのみ待っていた。そして吾々の前に突然、彼の死体が現われたのである。
 死体を前にしても、吾々の眼には頑健な彼の姿のみが映る。彼は肉体的にも精神的にも、野性的頑健さを持っていた。よく食い、よく飲み、よく談じた。

 牛鍋をつっつく時の彼は面白かった。飲みながら、談じながら、生煮えの肉を頬張った。一切れ頬張ると、また箸をつきだして、鍋の中の生煮えの一切れを押える。無意識に先取特権を宣言するのである。肉が少くなると、他の者は箸を差出す余地がなくなる。最後の一切れまで彼に平げられてしまう。――然し私は、これに対抗する法を心得ていた。彼が肉の方に気を配ってる間に、私は酒の方に眼をつけるのである。銚子の最後の一杯まで飲んでしまう。彼が肉を食い終って、銚子に手を出す時には、もうそこには一滴も残っていない。
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