。
孝太郎の心は寒さが増すにつれて次第に深く沈まんとした。然し一層の強さでぐいぐいと外の方へ引きずられた。過去の姿が茫とかすんで、現在の悩ましいものが彼の心に止って来た。
富子が殆んどその姿を二階に現わさなくなった時、孝太郎は自分のうちに彼女に対する愛慾の念が深く萠しているのに眼を見張った。富子との過去の瞬間、凡てを切りはなしたあの息を潜めた瞬間のみが、度々彼の心に蘇ってきた。そして彼は狂わしい眼付でじっと富子の後《あと》を狙った。
「この頃はなぜ黙ってばかり被居るんです。」と孝太郎はある時富子に云った。
その時富子は縁に佇んで、寂《さび》れて来た庭の方をぼんやり見ていた。彼女はふと眼をあげて孝太郎の顔を見たけれど、すぐに視線をそらした。
「黙っている方がいいような気がしますから。」と彼女は云った。
孝太郎はそれきり黙っている彼女の横顔を喰い入るように見つめた。とその頬の筋肉がちらと動いた。
「何をそんなに見つめて被居るんです。」と富子は云ってちらと微笑みかけた。然しその微笑はすぐに冷たく凍ってしまった。
「私は此の頃あなたの心がちっとも分らなくなってしまった。」
「もとからお分りになっては被居らなかったでしょ。」
「先《せん》には分っていたようです。」
「え?」と富子は急に孝太郎の方を向いた。
孝太郎は何か彼女の眼の中に恐ろしいものを見た。
「あなたは此の頃すっかりお変りなすった。」
「みんなでそう私をなすんです。」
「ではなにか……恒雄さんが。」
「何を仰言るんです。」
富子はこう云って自分でも喫驚したように一寸呼吸を止めた。孝太郎はその横顔の上に震える後れ毛を見た。すると彼の心は急に堪えられなくなった。其処に身を投げ出して叫びたくなった。
「許して下さい。私は苦しいんです。」
「そんなことを仰言るものではありません。私は……いえこうしていちゃお互に悪いでしょうから。」
富子は黙って向うへ行ってしまった。
孝太郎は二三歩その後に従った。けれど突然彼は何かにぶつかったような気がした。彼は自分のまわりに冷たい壁と、それから自分のうちに熱い呼吸とを、殆んど同時に見たのである。そして喘ぐような処で、庭に一杯さしている弱い尖った日の光りを見やった。
孝太郎はまたも茫然と佇んだまま富子の姿を思い浮べた。執拗な沈黙と孤独とが、何時のまにか彼女のまわりにたれ籠めていったのである。そして凡てを反撥せんとする冷酷と息を潜めたような内心とが其処にあった。
彼は投げ出されたような自分を見出して、しきりに富子の上に貪るような眼を向けた。然し富子はいつも彼の前から逃げるように避けるのであった。
けれどどうかすると彼等は恒雄と三人で暫く茶の間に一つ火鉢をかこむことがあった。そういう時はいつも恒雄は孝太郎の視線に自分の視線を合せないようにした。
「この頃は会社の方はお忙しいでしょう。」と孝太郎は何気なく彼に云った。
「ええ。それに何だかさっぱり面白くありません。」
「一体職業となるとそう面白いものはありませんでしょう。」
「そうですね。けれど……。」と云いかけて恒雄は、黙って眼を伏せている富子の方をちらと見た。
「この頃御病気の方は?」と孝太郎はまた尋ねてみた。
恒雄は脳が悪いと云って、大分前から医者の薬をのんでいた。
「病気というほどのことはありませんけれど、何だか一向さっぱりしません。」
「どんなにお悪いんです。」
「そうですね、いつも頭がぼーっと熱でも出たように熱くなって、それに何だか物を考える力が無くなってくるようです。」
「余り脳を使いすぎたんではありませんか。」
「ええ。」と答えたが、恒雄はそれから急に両肩を聳かして黙り込んでしまった。
「何処かへ暫く転地でもなすったらお宜しいでしょう。」
恒雄は何とも答えないで孝太郎の顔を見た。孝太郎はその眼の中にある犯し難い反抗の色を見た。そして彼はただわけもなく苛ら苛らしてきた。
「あなたも余り……。」と云って孝太郎は口を噤んだ。
「何です?」
「いえ、」と云ったまま彼は、執拗だ! という言葉を口に出し得なかった。そしてじっと恒雄の乱れた頭髪を眺めた。恒雄はその心持ち円い眉をあげて火鉢の炭火に見入っていた。
孝太郎は苦しい沈黙のうちにふと、こういうことを思い出した。――いつかやはり三人でこうしている時、「何か遊びごとでもあるといいですね。」と孝太郎が云うと、「黙ってばかり被居るからでしょう。」と富子が応じた。その時恒雄は「お前の方が黙っているじゃないか。」と云った。その言葉が冷たく孝太郎の心を刺した。そして富子がすらと眉根を震わした。
「あなたもうお薬を召し上がって?」と富子が突然沈黙を破った。
「いやまだ。」と恒雄は答えて顔を上げた。そして彼は孝太郎の視線をさけるように室の
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