失われた半身
豊島与志雄
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独りでコーヒーをすすっていると、戸川がはいって来て、ちょっと照れたような笑顔をし、おれと向き合って席についた。
「やはり……いつもの通りだね。」
「うむ、習慣みたいなものさ。」
「習慣……、」戸川はなにか途惑ったようで、「然し、一週に一回の習慣というのが、あるかなあ。」
「年に一回のだって、あるからね。正月だとか、盂蘭盆だとか……。」
「そりゃあ、初めから年一回ときまってるんだが、君のは……。」
戸川のところにコーヒーが来ると、おれは、マダムに耳打ちしてウイスキーを二杯求めた。一杯を戸川のコーヒーに入れてやった。この蒼白い勉強家に、ちょっぴり敬意を表したかったのだ。
習慣、というのは口から出まかせで、真実のところは、話したって恐らく戸川なんかには理解出来まい。
おれは外地の戦場から戻ってきて、再び大学生となった。郷里の家産が傾いたので、自活した。いろいろなことをやった。学生アルバイトという便利な言葉が流行していて、仕事がしやすかった。然しそれも長続きはせず、おれは三日三晩考えぬいた揚句、だんぜん方向転換して、先輩に泣きつき、出版社に就職した。先輩の口利きで、これもやはり学生アルバイトということになり、給料からの源泉課税差引きを免除された。免除された分だけでも、学校の授業料に廻して余りがあった。まず生活安定というわけだ。その代り会社に対しては責任がある。自慢ではないが、ジャーナリストとしての能力にも自信が持てた。責任と、自信とに裏切ってはいけない。学校の講義に出席するのは、週に一回だけ、午前中ときめた。もっとも、学校の教授中には、社から原稿執筆を依頼してある向きもあるので、聴講と原稿催促とを兼ねた一石二鳥のやり方だ。
出版社に勤めてるということは、おれの方では黙っていたが、仲間たちにうすうす知られてきたし、教授たちにも原稿のことがあって知られたし、いささか特殊な存在らしくおれは見られてるようだった。それに気がつくと、おれは逆に傲慢な態度を取った。戦争のため親しい友人がクラスにいなくなったのも、却って好都合だ、誰とも余り口を利かず、教室では、なるべく中央近く、教授の眼につき易いところに席を占めた。一週に一回、二単位の講義だけを聴きに出て来るのだ。何か不利な事件があって、おれの出席率の甚だ悪いことが教授会の話題に上っても、平素、一二の教授の眼にとまっておれば、必ず弁護して貰えるものだと、おれは或る人から聞いたことがある。その上、おれは常に公明正大なのだ。聴講した二単位の科目しか決して受験しない。然し受験するからには、優秀な答案を出す。特別な研究とか実験とかのない文科系統では、それぐらいなことは、おれの能力を以てすれば容易だ。学務課の人に内々聞いてみたら、おれの受験成績はだいたい九十点前後、つまり優秀だった。ざまあ見ろ。但し、卒業はなるべく長引かせるに限る。いつどんな変動が世の中に起るか分らないし、大学生ということは一種の身分保証となる。
これが、おれの胸中の秘策だった。秘策というほどのものではないが、素知らぬ顔をしてそれを実行するのが、即ち秘策なのだ。理屈では分っても、実行し得る者は、見渡したところ仲間のうちにはまず無い。
とは言え、一週一回にせよ、二単位の講義、ざっと三時間ほど、じっと聴いていることは、可なり苦痛だ。時々ノートをとったり、いたずら書きをしたり、講義とは別なことを考えたり、指の関節を鳴らしたりするのだが、退屈さに変りはない。如何に博識達見の教授でも、いつもいつも面白い話ばかり出来得るものではないし、だいたい大学の講義なるものは、威厳をつくろいながらも洒脱な歩みをすることにきまってるものらしく、その歩調が往々にしてしどろもどろに乱れると、不思議なことには、教授はわざと快心の笑みを浮べるし、学生たちは阿諛的な笑顔を作るのである。その中にあって、おれは方便としても神妙な態度を装わなければならない。ずいぶん疲れるし、食慾が減る。
だから、学校に行く日は、今のところ木曜日だが、帰りに喫茶店へ寄ることにしていた。午食をぬいて、ケーキとコーヒーを取り、気分を引立てるため、コーヒーにウイスキーを注いだ。このウイスキーは、マダムに特別に頼んでおいたもので、おれの顔に対するサーヴィスなのである。
この喫茶店では、クラスの学生たちにしばしば逢った。戸川もその一人だ。然しおれは、マダムにおれが預けてることになってるウイスキーを、彼等に公開はしなかった。おれはそれほど甘っちょろい男ではないし、それほど彼等と親しくもなかった。
ところで、おれには妙な癖がある。旧知の人に逢っても初対面のような気がすることもあれば、初対面の人に逢っても旧知のような気がすることもある。両者の間の程度の差はさまざまだ。この相手とはこういう間柄だとはっきり分っていながら、気持ちの上ではへんな錯覚が起る。終戦後日本に帰還してきた時からの、未だに直らぬ癖らしい。それがひょっと出たのである。
戸川がはいって来て、照れたような笑顔でおれの前に坐った時、おれは、親しい友人だがずいぶん長く逢わなかったなあと、そんな気がしたのである。学校で、おれに言葉をかけて何か話をしたがってる様子だったのを、おれが素気なく振り切った。そのことが原因だったのだろうか。そのくせ、彼はクラスのまあ秀才で、週に一回はたいてい逢ってる、ということははっきり分っていたのである。だから実は、彼に敬意を表する気持ちよりも、久闊を叙する気持ちから、ウイスキーをふるまってやったものらしい。
おれの気附薬を混じたコーヒーを、彼はうまそうもなく、然し恐縮そうにすすった。酒は好きでないらしい。長髪は油っ気が少いが艶がよく、痩せがたの顔は蒼白く、精神も蒼白いようだし、近眼鏡の奥の瞳は美しく澄んでいる。その顔を、おれはじっと眺めた。
「今日、学校で、僕に何か用があったんじゃない。」
彼ははにかんだような微笑を浮かべて、頭を振った。
「いや、用があったんだろう。」
揶揄するように言ったつもりだが、彼は突然、きらりと光る感じの眼をおれに向けた。
「用というほどのことではないが……ちょっと、永田のことを聞きたいと思って……。」
「永田って、あの、永田澄子のことかい。」
「うむ。」
それは、意外だった。永田澄子というのは、同学の二人の女学生のうちの一人で、髪をおかっぱにした小柄な、まあ少女だ。無邪気な明るい性質で、おれは彼女を誘って、なんどか、映画を見たり、コーヒーを飲んだりしたことがある。同窓の婦女子を誘惑してはいかん、と嘗て誰かが皮肉ったことがある。誰だったかおれはもう覚えていないほど、彼女に対するおれの気持ちは淡々たるものだった。ただ、映画を見るにせよコーヒーを飲むにせよ、独りよりは、或は男の友人と一緒よりは、若い女と共にする方が楽しい気分になれる日も、往々あるものだ。その永田澄子が、戸川の話によれば、肺浸潤かなんかで、可なり重態らしいとのこと。そこで、同学の女の学生に敬意を表して、お見舞に花でも贈りたいと思うが、どうだろうと戸川は顔を少し赤らめて言うのだった。
おれはあぶなく笑い出しそうになった。戸川に敬意を表してウイスキーを、そしてこんどは、女学生に敬意を表して花束か。然し、次の瞬間、おれはむかむかっと不愉快になった。
「たかが一人の女学生が、病気になろうと、どうしようと、構わんじゃないか。感傷は捨てるんだ。ほっとくんだね。」
そしておれは、ウイスキーを、グラスにではなくコップに二つ求めた。
戸川はおれの様子を怪訝そうに眺めていた。
「然し、永田といちばん親しかったのは、君じゃないか。なんにも消息はないのかい。」
「僕はなにも知らん。」
おれ自身にも意外なことには、その時、木村栄子の顔が胸に浮んだ。それが、胸の中からおれをじっと見てる。忌々しいが、どうにも仕方がない。打ち明けて言えば、情慾がある時はおれは彼女を好きだし、情慾がない時はおれは彼女を厭う。それが当然だと、おれは考えるのだが、そういうおれの胸の中から、彼女はじっとおれを眺めて、別なものを穿鑿しようとしている。今晩、おれのところへ訪れて来ると言っていたが、果して来るかどうか。
「君の方では、好きではなかったのかい。」
「誰……永田か。ばか言うな。」
戸川は、或は永田澄子に好意を懐いているのかも知れないし、或はおれと彼女とのことを心配してくれているのかも知れない。いずれにしても、それは解る。解るだけに、歯痒いのだ。
「君たちはいったい、人生に甘いよ。」
戸川はびっくりしたらしい眼を、おれの眼に据えた。
「小便くさい女、てことを、君たちは知ってるかい。」おれは毒々しい気持ちになっていった。「女学生なんて、みな、小便くさい女だ。かりに、機微にふれることは除いて、常識的な眼で見ても、耳には耳垢をためてるし、鼻には鼻糞をつまらしてるし、靴の中でむんむんむれてる足を、家に帰っても洗わず、そのまま寝床にはいるし……とにかく、不潔だよ。」
おれの眼には、木村栄子の磨きすました、香水の香りのしみた肌が、ちらついていた。女学生なんかとは比較にならない。
「そんなことを言えば、僕たち、男の学生だって、清潔とはいかないよ。問題は、精神だと思う。男女間の愛情にしたって、肉体を超えたところに在るんじゃないかね。」
「なあに、愛情は単に性慾の変形に過ぎない。近頃流行の言葉をかりれば、肉体が思考する、ただそれだけのことじゃないか。」
「僕はそうは思わないね。肉体は慾求はするが、思考はしない。思考するのは精神だ。その証拠には、肉体的なものには一定の限界があるが、精神的な思惟は無限に進展するよ。」
「それは抽象論だ。僕にとって最も大切なのは、現実だ。先ず現実を直視し、掘り返さなければ、いつまでたっても精神の空転に終る。」
「然し、現実を整理するのは……。」
「もう分ったよ。現実を整理するのは精神、現象を整理するのは意識、そして整理された秩序の中で、思惟は無限に進展する……感性に対する知性の優越……それもよかろう。然し僕は、僕はだね、僕たちの歯も爪も立たず、僕たちを体ごと撥ね返すようなものが、現実の中にあることを、決して見落したくない。」
この種の議論は、実におれには苦手だし、くそ面白くもない。ウイスキーを飲み干すと、丁度、他の客がはいって来たので、立ち上りかけた。
「君は、戦地で特殊な経験も積んで来たろうが……。」
「考えは平凡かね。」
「いや、平凡じゃないが、なにか、忘れものをしてるような……。」
戸川もウイスキーをなめながら、独語のように、低く言ったのだが、おれは妙に冷りとした。彼だって、なにか忘れものをしてるようなところがあるじゃないか。そう思っても、おれの冷りとした感じに変りはない。そうだ、なにか忘れものをしてるようなところ、それをおれ自身、前から感じていたのだ。戦地でのことをひとから聞かれる度に、おれは当り障りのないことだけを答えたが、実は、誰にも話したくないことが幾つかあった。自分自身にも伏せておきたいことだ。そういうことと関係があるのかも知れなかった。戸川の蒼白い精神主義者めが、何を感づいたのか。
彼は少し酔ったらしく、卓上に両手で頭をかかえていた。
おれは立って行って、勘定をすまし、黙ってそこを出た。挨拶するなら、戸川の方からすべきだ。秋の陽差しが強く、眼がくらくらした。
その午後、おれは憂欝だった。何もかもつまらなかった。やたらに腹が立つが、おおっぴらに怒ることが出来ず、くよくよと我慢してる、そんな風の憂欝さだ。これは時々あることで、そう長く続くものではなく、せいぜい半日ぐらいで過ぎ去るのは、分っていた。然しこんどのは、どうも根深いように思われた。ま
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