ほど甘っちょろい男ではないし、それほど彼等と親しくもなかった。
 ところで、おれには妙な癖がある。旧知の人に逢っても初対面のような気がすることもあれば、初対面の人に逢っても旧知のような気がすることもある。両者の間の程度の差はさまざまだ。この相手とはこういう間柄だとはっきり分っていながら、気持ちの上ではへんな錯覚が起る。終戦後日本に帰還してきた時からの、未だに直らぬ癖らしい。それがひょっと出たのである。
 戸川がはいって来て、照れたような笑顔でおれの前に坐った時、おれは、親しい友人だがずいぶん長く逢わなかったなあと、そんな気がしたのである。学校で、おれに言葉をかけて何か話をしたがってる様子だったのを、おれが素気なく振り切った。そのことが原因だったのだろうか。そのくせ、彼はクラスのまあ秀才で、週に一回はたいてい逢ってる、ということははっきり分っていたのである。だから実は、彼に敬意を表する気持ちよりも、久闊を叙する気持ちから、ウイスキーをふるまってやったものらしい。
 おれの気附薬を混じたコーヒーを、彼はうまそうもなく、然し恐縮そうにすすった。酒は好きでないらしい。長髪は油っ気が少いが艶がよく、痩せがたの顔は蒼白く、精神も蒼白いようだし、近眼鏡の奥の瞳は美しく澄んでいる。その顔を、おれはじっと眺めた。
「今日、学校で、僕に何か用があったんじゃない。」
 彼ははにかんだような微笑を浮かべて、頭を振った。
「いや、用があったんだろう。」
 揶揄するように言ったつもりだが、彼は突然、きらりと光る感じの眼をおれに向けた。
「用というほどのことではないが……ちょっと、永田のことを聞きたいと思って……。」
「永田って、あの、永田澄子のことかい。」
「うむ。」
 それは、意外だった。永田澄子というのは、同学の二人の女学生のうちの一人で、髪をおかっぱにした小柄な、まあ少女だ。無邪気な明るい性質で、おれは彼女を誘って、なんどか、映画を見たり、コーヒーを飲んだりしたことがある。同窓の婦女子を誘惑してはいかん、と嘗て誰かが皮肉ったことがある。誰だったかおれはもう覚えていないほど、彼女に対するおれの気持ちは淡々たるものだった。ただ、映画を見るにせよコーヒーを飲むにせよ、独りよりは、或は男の友人と一緒よりは、若い女と共にする方が楽しい気分になれる日も、往々あるものだ。その永田澄子が、戸川の話によれば、肺浸潤かなんかで、可なり重態らしいとのこと。そこで、同学の女の学生に敬意を表して、お見舞に花でも贈りたいと思うが、どうだろうと戸川は顔を少し赤らめて言うのだった。
 おれはあぶなく笑い出しそうになった。戸川に敬意を表してウイスキーを、そしてこんどは、女学生に敬意を表して花束か。然し、次の瞬間、おれはむかむかっと不愉快になった。
「たかが一人の女学生が、病気になろうと、どうしようと、構わんじゃないか。感傷は捨てるんだ。ほっとくんだね。」
 そしておれは、ウイスキーを、グラスにではなくコップに二つ求めた。
 戸川はおれの様子を怪訝そうに眺めていた。
「然し、永田といちばん親しかったのは、君じゃないか。なんにも消息はないのかい。」
「僕はなにも知らん。」
 おれ自身にも意外なことには、その時、木村栄子の顔が胸に浮んだ。それが、胸の中からおれをじっと見てる。忌々しいが、どうにも仕方がない。打ち明けて言えば、情慾がある時はおれは彼女を好きだし、情慾がない時はおれは彼女を厭う。それが当然だと、おれは考えるのだが、そういうおれの胸の中から、彼女はじっとおれを眺めて、別なものを穿鑿しようとしている。今晩、おれのところへ訪れて来ると言っていたが、果して来るかどうか。
「君の方では、好きではなかったのかい。」
「誰……永田か。ばか言うな。」
 戸川は、或は永田澄子に好意を懐いているのかも知れないし、或はおれと彼女とのことを心配してくれているのかも知れない。いずれにしても、それは解る。解るだけに、歯痒いのだ。
「君たちはいったい、人生に甘いよ。」
 戸川はびっくりしたらしい眼を、おれの眼に据えた。
「小便くさい女、てことを、君たちは知ってるかい。」おれは毒々しい気持ちになっていった。「女学生なんて、みな、小便くさい女だ。かりに、機微にふれることは除いて、常識的な眼で見ても、耳には耳垢をためてるし、鼻には鼻糞をつまらしてるし、靴の中でむんむんむれてる足を、家に帰っても洗わず、そのまま寝床にはいるし……とにかく、不潔だよ。」
 おれの眼には、木村栄子の磨きすました、香水の香りのしみた肌が、ちらついていた。女学生なんかとは比較にならない。
「そんなことを言えば、僕たち、男の学生だって、清潔とはいかないよ。問題は、精神だと思う。男女間の愛情にしたって、肉体を超えたところに在るんじゃないかね。
前へ 次へ
全6ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング