甘えたい気持ちになってゆき、それが自分でも楽しかったが、どういうものか、或る冷い障壁が彼女のうちに感ぜられた。それならそれでもよい、とおれは思った。二人の肉体が愛し合ってから、二人ともあの鮨屋にはあまり行かなくなった。そのことに何の意味があるものか。
「もうだいぶ召し上ってるようね。」
「うむ。ウイスキーと、焼酎だ。やはり日本酒がいちばんいい。」
彼女は銚子を取って、器用な手付きで酌をしたが、ふいに、おれの顔をじっと見つめた。
「あなたは、今日はなんだか冷いわね。」
忘れていた。おれは彼女の肩を抱いて、キスしてやった。だが、彼女の方も冷淡のようだ。おれは苛立たしい思いだった。昼間の虚脱感が戻ってくる。そして今、おれには性慾がないのだ。あなたの情熱がうれしい、と囁いて、彼女はしばしば蛇のようにおれの体をしめあげたが、然し、獣ではあるまいし、常住不断に性慾を、いや妥協して、情熱を持ち続けられるものではあるまい。おれが冷淡になると、彼女は時折、愛情が少いと訴えたものだが、愛情なんていったい何物だ。
「ねーえ、」とそこに彼女はいやに力を入れて言う。「今日はいろいろなこと伺いたいの。あなたの昔のことや、今のお気持ち。洗いざらい打ち明けて下さらない。その上で、あたし、決心したいの。」
然し、今更なにを打明けることがあろう。おれだって、彼女のことをよく知ってはいないのだ。
彼女はあの鮨屋から程遠からぬアパートに住んでいる。八畳と六畳と炊事場との贅沢な家だ。窓や戸の構えは洋風だが、中は畳敷きで床の間もある。箪笥を二棹おきならべ、低い用箪笥の上には神棚の金具が光っており、ラジオの横には二挺の三味線、それから長火鉢や卓子、花が活けてあることもある。五日おきぐらいに、おばさんとかいう人が手伝いに来てくれるそうだが、凡そ女一人の住居としては清浄に整いすぎている。そして彼女はカフェーの昼間勤め、晩画は[#「晩画は」はママ]よく観るらしいし、競馬が始まればしばしば出かける。金はあるのだろうが、旦那という男はあるのやらないのやら。たぶん芸者上りかなんかだろうが、生活にしろ経歴にしろ、訳の分らぬ女なのだ。嘗て洋装をしてたことがない。おかしいのは、おれが出版社の編輯員だということを知って、自叙伝風の小説を書いてみたいから出来たら出版してほしいと言い出したことがある。大変なことになったとおれは
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