う一語を言ってくれていたら、彼女は鳥料理屋などへ行かずに済んだし、富永さんの家へも行かずに済んだのだ。富永さんの家で、どんな目に逢ったか。それは若主人の方ではなく、もう六十歳以上の老主人の方だった。なかば不能になりかかってる老人は、閨房で、玩具のように彼女を扱った。彼女は要求されるままに、あらゆる恥しい姿態をし、あらゆる恥しいことを行った。それでも、空襲の時、彼女は危険を冒して老人を助けようとした。煙と焔にまかれて倒れてる老人を救おうとして、首から肩へ大火傷をした。――そういうことを、若主人の方はわきから見ていた。素知らぬ風でと言えるほど冷淡に、わきから見ていた……。
告白、ともつかず、独白、ともつかない、彼女の断片的な露骨な言葉は、奇妙な調子を帯びていた。酔余の放言のようでもあり、腹を立ててるようでもあった。それが急に打ち沈んで、しんみりと彼女は言った。
「あの時、結婚のことを一言、なぜ言って下さらなかったの。わたし、どんなにそれを待ってたか……。でも、いくら待っても、だめだった。……おかしいでしょう。」
ふいに彼女は笑った。
その笑いが、私を元気づけた。
「そんなら、なぜ、君の方から言わなかったの。」
「言えると思って?」
「言えるさ。」
「愛のことじゃない……結婚のことよ。わたし貧乏だったわ。」
「貧乏でも……。」
言いかけて、私は口を噤んだ。なにか寒々としたものに突き当ったのだ。
「こんな話、もうやめましょう。わたし、今日は酔いたいのよ。」
私には、へんに酔えないものがあった。そしてその方へ、気持ちが落ちこんでいった。――そうだ、貧乏な者には、結婚のことなど言い出せないのかも知れない。貧乏な私が、今、彼女へ結婚のことを言い出したのも、長い躊躇の後だ。それならば、恋愛は……。貧乏な庶民には、結婚をよそにした恋愛など、猶更無理なことかも知れない。私にしても、恋愛よりは結婚のことばかり考えていたのだ。
なにかしんしんとした思いに沈んでいると、彼女は私の肩をとんと突いた。
「面白くしましょうよ。生きてる間は……。」
それでも、彼女の顔はどこか硬ばってるようだった。
「空襲の頃の方が面白かったわ。」
彼女は立ち上って、小箪笥の上方の小さな抽出の奥を探り、紫色の壜を取り出してきた。
「これ、なんだか分って?」
私は壜を受け取り、栓を開けようとした。
「開けちゃだめ。」
彼女は壜を取り戻して、その毒薬の名を囁いた。
「いざという時のために、わたし、富永さんのお年寄りからわけて貰ったの。こんなものを持ってると、生きてるのに張り合いがあった。けれど、もうこんなもの、つまらなくなったわ。」
その壜を無雑作に、文机の隅に彼女は置いた。そして私たちはウイスキーを飲んだ。
「北海道へはいつ発つの。知らしてね。」
私の顔をじっと見ながら、彼女は言うのだった。
それらのことが、私の頭にまざまざと蘇ってくるのだ。あの紫色の壜に、弓子はもう関心を持っていなかったのであろうか。或は故意に無関心を装っていたのであろうか。然しその壜が、彼女にとって、また私にとっても、宿命的なものとなった。そしてその壜のことと、あとで彼女が私に与えた積極的な熱い接吻のこととが、対照的に思い出されるのだ。
あの焼け跡の雑草の中で、私は、自分の愛情の惨めさ悲しさを見た。弓子の愛情の惨めさ悲しさを見た。そういう愛情を私はもう捨て去ろうと思う。その代り、弓子を自分のうちに生かそう。私と彼女は異った陣営の者ではない。一緒に手を取り合って歩くべき仲間だ。そしてあの紫色の壜にも、もう用はない。もしあれが私たちの手許にあったとしても、それは私たち自身に投げつけるためではなく、他の陣営に向って投げつけるためであらねばならぬ。
私が彼女の死体のそばへ帰っていったのは、よいことだった。もしもあのまま逃亡したら、私は永く救われなかったろう。私は勇敢に真実を肯定しよう。そして嘘は一切言うまい。私はいま監禁されており、不誠実な自白を誘導されておるが、勝利は常に真実の側にある筈だ。
あれから、私は家に帰る隙がなかった。そのことをも予想して、弓子の書箋――彼女が誰かに長い手紙を書きかけて、それを自ら焼き捨てた、その残りの書箋で、手短かに妹へ手紙を書いた。或は無実の罪を負って暫く家へ帰れないかも知れないこと、決して心配するに及ばないこと、そして最後に、北海道行きを決心したこと、但しいつ行けるようになるか分らないが、その旨を伯父に至急知らせて貰いたいこと、それだけを書いた。そしておばさんの主人に頼んで、家へひそかに届けて貰った。
もう気に懸るものはない。ただ、私の上に押っ被さってきて、私を打ち拉ごうとするものがある。検察当局の重圧であろうか。四方の荒壁の重圧であろうか。然し私にはそれに対抗し得る自信がある。――高いところに、鉄棒のはまった窓があって、青空の一片が切り取られて見える。端坐して、それに見入り、それに縋っておれば、私は自由な呼吸が出来るのだ。
底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字、1−13−24])」未来社
1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「明日」
1948(昭和23)年1月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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