眼を開いて私を眺めるかも知れないという、そんなことでもない。彼女が起き上って私と向い合いに坐るかも知れないという、そんなことでもない。生きてた時の通りでそして底知れず冷たいその死体の方へ、私の肉体がじりじりと引きつけられてゆくような、そういう感じのする不安なのだ。――私は嘗て戦陣で、いろいろな死体の側で時間を過したことがあった。然しその時は何の不安も恐怖も感じなかった。軍服というものは不思議なもので、それが、自分自身と外界の事物とを遮断する隔壁となる。そういう軍服みたいなものを、私はもう持たなかった。自分自身が、その室では、真裸だった。室内に立ち籠めてる不安が肌身にまで迫ってくるのだ。眼をつぶる余裕もなかった。
 私は立ち上った。なにか自分を絡めてる多数の蛛蜘の糸が断ち切れたような工合だった。茫然と見廻すと、飲み残しのコップの酒があった。私はそれを裏口の土間にあけた。瓶の中のウイスキーの残りまでも土間にあけた。彼女がそれを再び飲むことを恐れたのだ。――昏迷の中でとはいえ、何というばかなことを私はしたことか。それが私にとって大きな不利の点となったのは言うまでもない。而も私は、文机の上の紫色の壜のことはきれいに忘れていたのだ。
 毒酒を捨てて私は軽い安心を覚えた。彼女の顔の白布を少しめくって、その額に接吻した。冷徹な感触のうちに彼女を伴い去る気持ちで、私はそこを出て行った。外套をつけ帽子をかぶり、店の方を通りぬけて、表戸から外に出た。
 淋しい焼け跡の方へ私は足を向けた。西空に半月がかかっていた。深夜で人通りはなかった。立ち枯れた雑草の中に私は飛びこみ、そこに屈みこんで泣いた。――深い深い孤独の中に私は在ったのだ。
 孤独感に甘えたのではない。寧ろ堪えきれなかったのだ。そして泣いてるうちに、次第に、自分のことが見えてきた。弓子のことも見えてきた。事件の全体も見えてきた。事件の外廓も見えてきた。――その時私が何を見たか、何を感じたかは、短い言葉ではつくせない。
 ――彼女をあのまま一人で打ち捨てておくべきではない。
 その中心点へ思念は何度も戻った。私は立ち上り、決意の足取りで、彼女の家へ戻っていった。
 電灯はついたままだった。私は表からはいっていった。彼女の室は取り散らされてるようだったが、それは私の気持ちの変化の故だったろう。彼女はじっと横たわっていた。髪の毛が乱れて、力なく肌にくっついていた。体がひどく細ったようだった。私はその襟元をちょっとつくろってやり、顔の白布の皺を伸してやった。それから店の横手の階段口に立って、大きな声で二階に叫んだ。
「おばさん、おばさん、起きて下さい。弓ちゃんが大変です。死にましたよ。」
 私は腹が立ってきた。瀬戸の灰皿を掴んで階段を殴りつけた。
「おばさん、起きて下さい。大変です。」
 おばさんは寝間着に丹前をひっかけて、階段をころげるように降りてきた。私は灰皿を土間に投げ捨て、むっつりと、おばさんを弓子の室に導いた。

 私が弓子の死を知ってから、直ちにおばさんを呼び起さず、或は直ちに医者の許へ馳けつけず、一時間余りも時間を空費したということは、私にとって決定的に不利な条件となった。――然し、その所謂空費された時間が、私にとっては、如何に充実した有益な時間であったことか。
 次に最も肝要な問題は、薬品に関することだった。私がもしくは彼女が、どこからそれを手に入れたか。以前から彼女が所持していたものだとすれば、どうして私がその所在を知ったのか。そういうことを私はきびしく追求された。
 物的証拠を私は軽蔑するのではない。また、弓子の死体が、後には解剖までされて、仔細に検証されたことを、私は不服に思ってもいない。然し薬品に関する限り、検察当局と私とは、全く異った立場に在ることが今では明らかとなった。彼等にとっては、それは犯罪上の具体的問題であるが、私にとっては、それはこの事件の象徴的な問題として考えられるのだ。
 終戦後一年たって、私は大陸から復員して自家へ戻って来た。弓ちゃんが近頃ささやかな酒場を開いてることを知り、胸を踊らせながらそこへ行ってみた。――大陸の戦場で、私は自分でも意外なほど彼女の面影を心中に浮べることが多くなっていたのだ。愛情を寄せる対象のないことは、異境の戦地では堪え難い淋しさである。――帰宅後、母や妹や其他の人々の言葉から、私は彼女の境遇の概略を知った。彼女がはじめ或る鳥料理屋の女中に住みこんだことは、私にも分っている。其後、つまり私が召集された後のことだが、その鳥料理屋は営業が出来なくなり、やがて解散した。彼女は自宅に戻って、そのささやかなミルクホールの仕事を手伝っていた。それから、鳥料理屋で贔負になってた客の家へ、女中として住みこんだ。そこの婦人や子供たちが田舎へ疎開したあ
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