に伯父からの手紙のことを話した。冗談のように装って話した。彼女は故意に殻にでも閉じ籠るような様子を示した。どうでもよいことのような調子を装った。装ったのだと私は思った。そして内心では、彼女が私を引きとめてくれるものと期待していた。――更に内心では、私は打ち明けて言おう。彼女との結婚を空想していたのだ。彼女と結婚して、そして私は、あの酒場を盛大に繁昌さしてやろうと考えた。そうなれば、母の生活も安泰だし、妹の嫁入りも気易く出来よう。小樽の伯父とも連絡して、海産物加工品の取引きも初めよう。
 私は年内に、弓子の決定的な言葉を得たいと思った。更に空想の中では、彼女から結婚の話が出るだろうと胸をとどろかしていた。そして私は彼女に夢中になっていった。
 そこへ突然、あの情景が展開されたのだ。彼女にとっては、苦悩の爆発みたいなものだった。私にとっては、雷撃にも似ていた。――私は今、それを語ることは、苦痛を超えた喜びでさえある。

 商売のことで、ちょっと飲み、酔ってくると、弓子に逢いたくなった。少し遅かったが、行ってみた。
 店は真暗だが、奥の室に光りがあった。私は声をかけて、煙草を吸いはじめた。ずいぶん暫くして、ぱっと電灯がつき、弓子が出てきた。今日は休みで、戸締りをしておいた筈だが、と言う。私は帰りかけた。
「飲みたいんでしょう。おあがんなさい。今日は休みだから、わたしがおごるわ。」
 最初来た時から二度目に、私は彼女の室に通った。
 食卓にウイスキーの瓶やピーナツが出ていた。
「お客さん?」
 弓子は頭を振って、文机の上に散らかっている書箋を指した。手紙を書いていたところらしい。
「いいなあ。酒を飲みながら、恋文を書く……。僕もこれからそうしよう。」
 弓子は睨むまねをした。
「何にもないわよ。おばさんが起きてれば、いろいろ御馳走するんだけれど……。」
「じゃ、起していらっしゃい。」
「気の毒よ。」
 彼女は真面目に受けて、そして、長火鉢に炭をついだり、新たにウイスキーの瓶をあけたり、グラスやコップを並べたりした。そしてちょっと落着くと、思い出したように、机の上の書箋をかき集めて、書いたのを、細かく引裂き、火鉢にくべて火をつけた。私は飲みながら、黙って見ていた。
「癪にさわるから、燃しちゃうわ。」
 紙の燃える火を顔に受けながら、へんに沈んだ眼付を彼女は私に注いだ。
「俊夫さん、」と私の名を呼んで、「いくつになったの。」
「いくつって、君より二つ上じゃないか。昔からそうだった。」
「昔はそうだったけれど……。」
 彼女は苛ら立った笑い方をした。
 考えてみると、私は三十一だから、彼女は二十九になっている。昔から二つ違いだった。けれど、今では、彼女は私よりもずっと多く世間を知っているようだ。知っているというのが悪るければ、世間ずれがしているのだ。――なにか悲しさに似たものが胸に来て、私は彼女の手を、いつものように握りしめようとした。
 彼女は手を引っこめた。
「昔は、よく、手を握り合ったわね。だけど、もうそんなこと……ばかばかしい。」
「そんなら……。」
 私は身を乗りだして、彼女の唇を吸おうとした。彼女はそれをよけて、コップを手に取った。
「脅迫するなら、打つわよ。」
「脅迫なんて……。」
「脅迫というものよ。男って、みんなそうよ。」
 コップの酒をぐいぐいあおって、そして、へんにぎらぎらする眼を私にじっと注いだ。――彼女は豊かな感じのする顔立ではなく、頬の肉付がへんに薄かったが、耳の恰好がよくて可愛かった。その耳を、わざと蔽い隠すような風に、髪をふっくらと取りあげている。私は彼女の眼を避けて、黒髪の中のその耳を求めたが、こちらに斜めに向いてる耳は、下の方が引きつり、その引きつりが、頸筋の大きな褐色の痣へ続いている。罹災の時の火傷の痕だ。私は眼を伏せ、コップの酒をなめ、食卓に屈みこむように両肱をついて、掌に額をもたせた。
「富永さんとこでもそうだった。」
 愛情と悲しみとの中に顔を伏せてる私を、まるで糾弾するかのように、彼女はぽつりと言った。
 私は驚いて顔を挙げた。
「そうよ。わたしを愛しようたって、だめよ。」
 彼女はもうすっかり酔ってるのだ、と私は思った。そして私も負けずに酔いたかった。――飲みながら、愛情とは、彼女が考えてるようなものではない、と私は言った。愛情とは、二人がいっしょに生活を打ち立ててゆくことだ、と私はいった。
「僕は、君と、結婚のことを考えている。」
 初めて、私はそれを口にした。彼女から言って貰いたいことを、こちらから言った。
「そんなら、なぜ、あの時にそう言わなかったの。もう遅いわ。」
「あの時?」
「あの時……昔よ。」
 昔、こっそり手を握り合ったりした時のことを、彼女は言ってるのだった。――私が結婚とい
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