開けちゃだめ。」
彼女は壜を取り戻して、その毒薬の名を囁いた。
「いざという時のために、わたし、富永さんのお年寄りからわけて貰ったの。こんなものを持ってると、生きてるのに張り合いがあった。けれど、もうこんなもの、つまらなくなったわ。」
その壜を無雑作に、文机の隅に彼女は置いた。そして私たちはウイスキーを飲んだ。
「北海道へはいつ発つの。知らしてね。」
私の顔をじっと見ながら、彼女は言うのだった。
それらのことが、私の頭にまざまざと蘇ってくるのだ。あの紫色の壜に、弓子はもう関心を持っていなかったのであろうか。或は故意に無関心を装っていたのであろうか。然しその壜が、彼女にとって、また私にとっても、宿命的なものとなった。そしてその壜のことと、あとで彼女が私に与えた積極的な熱い接吻のこととが、対照的に思い出されるのだ。
あの焼け跡の雑草の中で、私は、自分の愛情の惨めさ悲しさを見た。弓子の愛情の惨めさ悲しさを見た。そういう愛情を私はもう捨て去ろうと思う。その代り、弓子を自分のうちに生かそう。私と彼女は異った陣営の者ではない。一緒に手を取り合って歩くべき仲間だ。そしてあの紫色の壜にも、もう用はない。もしあれが私たちの手許にあったとしても、それは私たち自身に投げつけるためではなく、他の陣営に向って投げつけるためであらねばならぬ。
私が彼女の死体のそばへ帰っていったのは、よいことだった。もしもあのまま逃亡したら、私は永く救われなかったろう。私は勇敢に真実を肯定しよう。そして嘘は一切言うまい。私はいま監禁されており、不誠実な自白を誘導されておるが、勝利は常に真実の側にある筈だ。
あれから、私は家に帰る隙がなかった。そのことをも予想して、弓子の書箋――彼女が誰かに長い手紙を書きかけて、それを自ら焼き捨てた、その残りの書箋で、手短かに妹へ手紙を書いた。或は無実の罪を負って暫く家へ帰れないかも知れないこと、決して心配するに及ばないこと、そして最後に、北海道行きを決心したこと、但しいつ行けるようになるか分らないが、その旨を伯父に至急知らせて貰いたいこと、それだけを書いた。そしておばさんの主人に頼んで、家へひそかに届けて貰った。
もう気に懸るものはない。ただ、私の上に押っ被さってきて、私を打ち拉ごうとするものがある。検察当局の重圧であろうか。四方の荒壁の重圧であろうか。然し私
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