より一定不変とは言えない。少しずつ、移動するのは、思想の生長にともない止むを得ないことだ。然し、孤独な境地の中での自由という基調は、どこまでもついてまわる。私はこの基調に於いて、現代の社会を解体する。解体しては新たにまた組織してみる。これが自然に、作品構想の瞑想裡に行われるのである。
ここで当然、私の社会観もしくは人間観を述べなければならないが、それはなかなか大変なことだから、手取り早く、数言で片付けよう。勿論、文学に関係ある面についてだけである。そして固より、実現の可能性のありやなしやは問題としない。
私は夢想する。何等の権力も存在しない自由な世界を夢想する。この権力という言葉は、拘束という意味にまで拡大して理解する必要がある。つまり権力とは、服従を強いるものばかりでなく、拘束し制約するものを指す。それが一切なくなるのだ。その上での自由である。だからここでは、各人が各人に対して自由であり、各人が各人に対して自主自立である。そういう世界を私は夢想する。
これは、断るまでもなく、人間の在りかたについてのことであり、文学上のことである。当面の政治問題や社会問題ではない。また、国家とか民族とか国際世界とかの当面の問題ではない。それらの問題が文学と無関係だと言うのでもない。ただ、人間の在りかたとして窮極的に考えるのだ。
ところで、何等の権力も存在しない自由な世界に、果して何びとが住み得るであろうか。人間の在りかたとして窮極的に考えられる世界ではあるが、そこに、摩擦なく安楽に、何びとが住み得るであろうか。答えは否定的ならざるを得ない。この点に人間の悲劇がある。私は作品の中で、この悲劇を、作中人物のものとして、また自分自身のものとして、執拗につつきたい。つまり、目指すところは、右様な世界に住み得る人間を育成することにある。
これが結局、私の仕事と世の中とのつながりである。これぐらいな信念がなければ、文学の苦渋な仕事は続けられない。他のいろいろなことは、私にとってはどうでも宜しい。あまり考えてみたこともない。
失いたくないもの、残しておきたいもの。――
これについては、私は当惑する。常識的に言えば、それはすべて物であり、美しいと感ぜられる物であろう。絵画、彫刻、美術工芸品、特殊建造物、名園、などなどを初め、日常の実用品のうち美しいと思われる物に至るまで、数え立てれば際限がない。然し設問の主旨はそんなところにはなく、特定のものを幾つか挙げて貰いたいのであろうし、或るいは風俗習慣や年中行事のうちの何かを挙げて貰いたいのであろう。だが私は今、そういうものを思いつかなかったのである。
このことに関連して、私は告白したいことが一つある。私は毎年、年末に、その一年中に受け取った書信をすべて焼却することにしている。昔からそうなのだ。如何なる関係の如何なる種類の人から来た手紙でも、すべて焼き捨ててしまう。だから、有名な故人の書簡集などが出版される折、それがたまたま私の知人だったりする場合、私宛の書簡の貸与を申し込まれて、ちょっと困ることがある。私信は公表すべきものでないという考えもあるし、第一、焼き捨ててしまっていたのだ。また、いろいろな人の形見にしても、棚の隅っこに埃をかぶって忘れられてることが多い。
こういう私の性情は、失いたくなく残しておきたいものは何か、という事柄から私を縁遠くさせがちである。進歩発展という意味でではなく、時々刻々の推移変転を私はむしろ楽しむ。温故知新は私の柄にない。非常冷淡な情けない奴だとも言えるが、また、現在もしくは将来にのみ生きる喜びを感じないでもない。
そういう次第故、この項の返答は御免蒙りたい。
底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2006年4月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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