らせることもあるが、真の勤勉努力というものが私には足りない。机に向って沈思黙考することなど殆んどない。気乗りがしなければ、ぶらりと外に出かけて酒を飲む。そのアルコールが発散してしまわない限り、仕事は出来ない。ばかりでなく、世の中には、見たいもの聞きたいものが余りに多すぎる。つまり、遊惰な誘惑が多すぎるし、それに対する抵抗力が私に少なすぎるのだ。勿論、これでよいとは私は思っていないし、困ったものだと感じている。
だが、もっと打ち明けたところを言えば、仕事の実践よりも、それ以前の瞑想の方が遙かに楽しいのである。原稿紙に向っての文字による造形には、一つの決定的なものが要請されるが、その一歩手前の瞑想には、無限の可能性が含まれる。この可能性の中を、私は自由に逍遙したいのである。仕事に怠惰であっても、瞑想に勤勉だと、自惚れている始末だ。
このことは、随って、私の作品を、殊に小説を、方法論的に性格づける。現実の形象を観察し描写することは、私にとっては甚だ窮屈なのである。現実の形象を打ち壊したり組み立てたりすることが、私には楽しいのである。固より、個々の素材は現実から得て来たものではあるが、それを文学の世界に転位するに当って、自分の息吹きを可能なる限り通わせたいのである。それ故、何かのために、或るいは誰かのために、小説を書いてると言うよりは、むしろ、自分自身のために書いてるとも言える。
そういうわけだから、私の作品に対する或る種の評言を、私は甘んじて受ける。何を書こうとしたのか分らない、焦点がはっきりしない、抽象的すぎる、現実味が乏しい、などなどの評言である。私の造形的怠慢の致すところだ。この怠慢から、今後、出来るだけ脱出したいとは思っている。
ところで、自分自身のために書く意味合が多いということは、必ずしも、自分の作意と世の中とのつながりを無視したことにはならない。作家というものは、如何なる作家にせよ、その作中人物の在りかたを、理念に於いては、人間もしくは人類の在りかたの鏡に映して眺めるものである。作中人物はたいてい、断崖のぎりぎりの一線に指定されるが、その在りかたの意義を規定するのは、それを映し出す鏡の位置如何による。自分自身のために書く意味合が多いということは、この鏡の位置により多く忠実だと言うことに外ならない。
私自身のその鏡の位置は、どこにあるのであろうか。固
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