いたらしゅうございます。高い声も立てず、要点だけをきびしく説きました。
杉山のことは奥さんに任せておけば宜しい、僕は知らないふりをしておいてやる、と三上は言いました。肝腎なのは、君自身のことだ。僕が君のところへ、たとい酔ったまぎれにせよ、夜這いをするとでも思ってるのか。ひとを見下すにも程があるぞ。僕は花柳界には出入りをするし、奥さんの前だけれど、水商売の女とはあそぶこともある。然し、家の女中に手をつけるほど耄碌はしていない。旦那さまかも知れないと思ったのは、君の勝手な自惚れだが、そんな考えがどだい、僕の顔に泥を塗るというものだ。僕の社会的名声を台なしにすることだ。もし杉山が僕だったら、君はどうしようというのか。おとなしく僕の意に従うとでもいうのか。旦那さまだからと、そういう考えが、封建主義の残りものだ。そういう古臭い考えがあるからこそ、日本はいつまでも進歩せん。考え直して新らしく出直せ。出直す前に、君自身を洗い清めろ。君はもう身も心も汚れてるじゃないか。みそぎばらいでもしろ。水垢離を取るなり、水風呂につかるなり、この間のように雪でも降ったら、一晩中雪の中に立ってるがいい。
「僕の言うことが間違ってるかどうか、一晩中、いや二晩でも三晩でも、考えてこい。分ったか。」
「はい。」と清さんは答えました。
清さんは家に来ました時から、返事ははっきりするものだと言いきかせてはおきましたが、実にはっきりと返事をする子でした。
今になって考え直してみますと、清さんこそ可哀そうでした。わたくしにせよ、三上にせよ、清さんのことをしんみに考えてやったことがなかったのでした。自分たちのことにばかり気を取られて、清さんの立場は無視していたのでした。気の毒な犠牲者、そのような気が致します。
三上の言うところにも、一理はありました。旦那さまだったらという忍従の考え、それはまさしく封建主義的なものの残滓でしょう。けれども、その一理だけを除けば、あとはもうめちゃくちゃです。顔に泥を塗るとか、社会的名声だとか、それこそ思い上った旦那さま的意識ではありますまいか。そして最後にみそぎばらい。わたくしの方まで恥ずかしくなります。三上だとて、場合によっては、女中のところへ夜這いも致しかねない男です。妻のわたくしが初めに疑惑を起したということが、既にそれを証明しているではございませんか。
それはとにかく、へんな結果になってしまいました。わたくしは翌朝、清さんを慰め、わたくしが後ろについていてやるから落着いていなさいと、いたわってやりました。そしてもう、清さんに対する嫌らしい気持ちは無くなり、杉山さんを憎む気持ちだけになりました。
それからわたくしは、ひそかに清さんの様子を見守っていてやりました。ただ、なんとなく気まずい空気はどうしようもありませんでした。三上もさすがに後味がわるいと見えて、清さんにあまり口を利かなくなりました。その代り、わたくしはつとめて清さんに言葉をかけてやるようにしましたが、ともすると、わざとらしい調子になりがちで、自分でも気がさしました。清さんの方は、ふだんから無口な上に、なお無口になったようでしたが、別に変った様子は見えませんでした。
ちょっと気づいたことを申しますと、清さんは夜遅くまで書物に読み耽ってることがあったようです。たぶん、わたくしが後で見つけましたあの、登山とか仏教とかに関する書物だったのでしょう。夜中に、清さんの部屋に明るく電燈がついてるのを見て、わたくしは声をかけたことがありますが、はいとすぐ返事があって、これからすぐやすみますと言いました。
あとで近さんに聞きましたところでは、清さんは時折、眠られないことがあって、催眠剤を用いていたらしゅうございます。あの吹雪の晩、ほんとうに買物があったとしますれば、それはたぶん催眠剤ではなかったろうかと、なぜかそのような気が致します。
それから或る時、清さんと近さんとのおかしな会話を、わたくしは耳に入れたことがあります。近さんはその日、外で、聾唖者同志の対話を見て来たらしく、たぶんその真似でもして、感心しているようでした。
「そんなの、ばかげてるわ。」と清さんが言いました。
「だってあんた、指先で話が出来るようになるまでには、たいへんな苦労でしょう。」と近さんが言いました。
「だから、ばかげてると言うのよ。あたしだったら、そんなばかな勉強はしない。」
「でも、つんぼで、おしなのよ。」
「結構じゃないの。なまじっか、耳が聞えたり口が利けたりするよりか、その方が幸福だわ。」
「まあ、へんてこな幸福。」
「あたし、ほんとは、この耳や口をつぶしてしまいたいと思うことがあるの。」
「変り者ね。」
「あんたこそ変り者よ。」
議論してるのかと思うと、そこで、二人とも笑いだしてしまいました。
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