朝、泊りのお客も帰られてから、わたくし一人のところへ、あの子が、清さんが、やって来まして、奥さま、と言ったきり、蒼ざめた真剣な顔を俯向けています。
なにかただごとでない気配ですから、わたくしは、黙ってあとを待ちました。清さんはちらとわたくしの顔を仰ぎ見て、懐から真白な角封筒を取り出しました。
「奥さま、杉山さまがさきほど、これをわたくしに無理やりおしつけなさいましたが、お返しするひまがございませんでした。わたくし、いやでございますから、奥さまから、お返しして下さいませんでしょうか。」
封筒は無封のままでしたから、中をあらためてみますと、千円紙幣が三枚はいってるきりで、ほかには何にもありません。
「これ、どうしたんですの。」
酒を飲んだり泊ったりして手数をかけたための心附けとしては、あまりに多すぎる金額でした。わたくしは気持ちにいやな陰がさして、眉をしかめました。
その時思い出しましたが、洗面所の隅で、杉山さんが清さんをつかまえて、手を大きく打ち振りながら、何か言っていらっしゃるところを、ちらと見たことがあります。つまらないことで清さんをからかってるのだとばかり思って、気にもしませんでしたが、たぶん、この封筒のことだったのでしょう。
杉山さんというのは、あなたも御存じの杉山隆吉さんで、宅の主人と同じ政党に関係なすってるかた、まだ議員候補にお立ちなすったことはありませんが、お年のわりには才能手腕とも優れていらして、将来を嘱目されているとか聞いております。でもわたくしとしましては、あの我武者羅な押しの強い人柄を、あまり好きではございません。
清さんは黙って俯向いていて、容易に事情を打ち明けようとしませんでしたが、やがて、決心したように言い出しました。そうなりますと、実にはっきりしております。
前夜、みんなやすんでしまった後、清さんは自分の室で、寝床も敷かず、着物も着換えず、電燈をあかあかとつけたまま、書物を読んでいたそうです。
ちょっとお断りしておきますが、宅では、女中部屋は三畳で狭いものですから、そこには近さんだけ寝かすことにしまして、書生部屋の四畳半が空いてるものですから、そこを清さんの部屋にしてやっておりました。
その自分の部屋で、清さんは寝仕度もせず、夜更けまで書物を読んでおりました。すると、何時頃だか分りませんが、夜中に、奥の便所へ誰かが行き、
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