死の前後
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)生々《いきいき》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)小説3[#「3」はローマ数字、1−13−23]
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 その朝、女中はいつもより遅く眼をさまして、本能的に遅いのを知ると、あわててとび起きた。いつもは、側にねているおしげが、眼ざまし時計のように正確に起上って、彼女を呼びさますのだったが、そのおしげの床が空っぽだった。それだけのことに彼女は変に心打たれ、いちどにはっきり眼をさまし、急いで寝間着を着かえ、帯を結びながら台所へやっていった。電気をつけると、そこの……旧式の台所で、板敷のところから一段ひくくなってる洗い場の前の置板の上に、おしげが、白い浴衣地の寝間着のまま横倒しに蹲っていた。「まあ……。」つかつかと歩みよって、ばあやさん……と言葉は喉の奥だけで、肩に手をかけた、とたんに、彼女ははっと、身を退いた。そしてまた覗きこんで、両手でゆさぶった時、おしげの身体は凍りついた枯木同様だった。
 声を立てたか立てなかったか、それも彼女は自分では覚えず、奥の室に馳けていって、主人夫婦を呼起した。
 島村がおしげの身体をしらべた。病身な細君は――まだ生きてた頃のことで――真蒼な顔をして棒のようにつっ立っていた。その後ろに、若い女中は屈みこんで震えていた。おしげは片方の眼を白目にうち開き、両手をつっ張り、膝を痙攣的に折曲げて、横倒しになっていた。頭の近くにバケツがひっくり返って、恐らく水が一杯はいっていたものだろう。彼女の髪と肩とを濡らしていた。外傷はなく、中毒の模様もなく、台所の雨戸はしまっていた。島村は死体の眼瞼をなでて閉してやった。それから、タオルと叫んだ。女中がもってきた新らしいタオルで、濡れた髪と肩とを拭いてやった。
「手をかしてくれ。寝かしてやろう。」
 その時、女中が急にわっと泣き出した。そして声をかみしめ、涙をぽたぽたこぼしながら、抱きつくように死体の足にすがった。島村は肩の方をかかえた。軽かった。女中部屋の布団に死体は長々と薄べったく寝かされた。
「しばらく、子供たちが起きないように、たのむよ。」と島村は云った。
 細君は血の気を失い、蝋のような顔をして、眼にためてる涙だけが生々《いきいき》と輝いていた。島村は電話口へいった。
 晩春の白々しい夜明の光が、欄間の硝子戸から、電燈の明るみの中にさしこんでいた。
 島村と懇意な田中医学博士が、急報をきいてすぐに来てくれた。おしげは死後四五時間経過したらしく、策の施しようがなかった。死因に怪しい点はなかったが、家族ではなく、急死なので、一応警察医の立会も求めることになった。既往症は動脈硬化、脳溢血による急死……。恐らく夜中に軽い苦悶を覚えて、水を飲みに立っていった時、急激な脳溢血で倒れたものであろう。もう六十歳になっていた。「死因は明かだが、そうした脳溢血を招いた間接の原因が何かあるかも知れない……、」と田中は島村に囁いた。彼女の縁故としては、東京には本所で小さな折箱屋をやってる遠縁の者と、下谷で芸奴になってる姪の娘きりだった。それらの人たちを呼んで、島村の家で死体を棺に納め、一通りの読経をし、遺骨を郷里の新潟県下に運ぶことになった。

 知人の紹介で島村のところに世話になってる三ヶ年余の間、おしげは本所の折箱屋とあまり往き来をしなかった。その代り、時々姪の娘を訪れていた。芸者だからお邸に出入りさしては悪いといって、一度も向うから来さしたことはなかったが、月に一二度くらいはどちらからともなく電話で話し、三月に一度くらいはこちらからたずねていき、小遣や平素着を貰ってくるのだった。ほんとうに孝行なやさしい娘だといって、女中にはしじゅう噂をしていた。その娘に頼りきってる風だった。実の親子と同様な気持でいたらしく、いまにあの娘《こ》と家を持つのだと、それが理想でもあり目的でもあるらしかった。そのためでもあろう、彼女はふだん極端に倹約で、給金の大部分を郵便貯金にしていた。娘から二十円三十円とまとまった小使をもらってくると、「奥さま」に必ずそれを見せて、貯金がふえるのを子供のように喜んでいた。彼女の唯一の贅沢は――入費は――肌着の類と紙とだった。うわべは粗末な着物をきていても、肌にはいつも真白な布をつけ、白い清潔な紙を使うのが、自慢だった。あの娘が――みち子が――そう申しました、と彼女は云い添えるのだった。恐らくみち子から仕込まれたのであろうところの、その白い清潔な肌着と腰巻と紙とが、島村夫妻の苦笑を招くこともあったが、其他の点では、彼女は一銭の金も無駄にしなかった。そして前からのいろんなものを合せ
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