などを持ちだした。これから旧跡を訪れてみないかと誘ってみた。
「そうですね、あなたさえよろしかったら……。」
 もう蔦子のことなんかは気にもとめていない様子だった。島村にしても、あれきり蔦子のことなんか忘れてしまっているのが、ふしぎなほどだった。
 二人は出かけた。丁度島村は、その土地に長く出てる静葉というのと懇意だったので、それを呼んで、蔦子のことを尋ねてみた。よく聞きただすと、蔦子というのがいるにはいたが、それは別人で、先の蔦子はもう数年前にやめて、只今はどうしてるか分らないらしかった。
「それでは、こんどの蔦子を呼んでみますか。」
「いや、よしましょう。」
 坪井は言下に答えた。そして島村と静葉との様子をしきりに見比べていたが、ふいに、島村をどうして好きになったかと、静葉にたずねかけた。静葉がただ笑ってると、坪井は、自分が島村を好く理由を話しだした。――まだあの事件以前のこと、彼は島村の彫刻を見たことがあった。その中に、女の胸像が一つあって、少しグロテスクだが、人間的な審美感をぬきにした物質的な動物的な肉体そのものの温みがよく出ていた。島村にもそういう嗜好があるらしい。その頃から彼は島村を知っている、というのだった。
「どうだい、島村さんには、ひどく人情深い善良なところと、ひどく人間離れのしてる冷いところとが、いっしょにまじっているだろう。」
「あなたも、そうらしいわね。」と静葉は答えた。
「ああ、それが僕の悩みだ。その悩みを感じない島村さんは、実際幸福だなあ。」
 そして坪井は、またしげしげと島村の顔を眺めるのだった。その視線の前に、島村はもうすっかり自分をなげだすだけの親しみがもてた。



底本:「豊島与志雄著作集 第三巻(小説3[#「3」はローマ数字、1−13−23])」未来社
   1966(昭和41)年8月10日第1刷発行
初出:「経済往来」
   1933(昭和8)年11月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年3月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全18ページ中18ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング