た。坪井はつまらない用件なのに不審がって、依田氏の顔色を窺った。すると、依田氏はなお声をひそめて、自分が出かけていっては工合がわるいことがあると弁解し、個人にせよ会社にせよ、時として秘密な窮地に立つことがあるものだと云い、この商事会社の立前として無抵当金融は絶対に謝絶しているので、秘密を守るためには君より外に使者がないと云うのだった。もしこの秘密が少しでも外部にかぎ出されたら、いろんな思惑が行われる懸念があると、その点を彼はくどいほど注意した。坪井はぼんやり聞いていた。貪慾そうな彼の口から出るばかにやさしい細い声が、まるで彼自身の声とは思えなかったし、而もその声の背後には、人の心のなかまで見通そうとするような光をひそめた小さな眼が、油断なく監視しているのだった。それらの肉体的な特長に対して、坪井は一種の恐怖と反撥とを覚えて、七千円の包みを抱えながら、静かに室を出ていった。
 街路に出て、大きく息をついたとき、坪井は軽い眩暈を覚えた。春の陽光が空に満ちて、その反映のため、大建築の立並んでる丸の内のオフィス街は水中にあるかのようだった。彼は円タクを呼止めるのを忘れて、ぼんやりつっ立った。その時彼の意識の中は、広漠たる空白で、而もその空白のなかに無数の超現実的な映像が立罩めていた。後になって彼は、そうした頭脳の働きを、自分の非社交的な性格の根柢に関係があるものだとし、人工に対する自然の反逆の癲癇的発作だと称した。がそれはとにかく、彼はその時、無数のビルディングの屋根をはぎ壁をはいで、その内部を素裸にして眺めた。出勤時刻のサラリーマン階級の群像が、その上につみ重った。依田賢造の顔が大映しになって前景に浮出した。彼はたえ難い寂寥を覚えた。その寂寥のうちに、肉体的とも精神的ともつかない嘔吐の気を感じた……。
 それはただ一瞬間のことだった。彼はすぐに自分自身を見出し、落付いた気持に返った。嘲笑的なものが顔の筋肉を和らげた。彼は歩きだし、往来に唾を吐いた。あらゆるものに反抗したかった……。
 其後のことは、簡単に述べておこう。彼は日比谷公園の木影のベンチに一時間ばかり休んだ。それから自動車で上野の方へ向った。懇意な家の一室で、夕方まで蔦子を相手に酒をのんだ。暫く郷里へ帰ってくるという言葉と、二千円の現金とを、呆気にとられてる彼女へ残した。その夜彼は東海道線の列車に乗りこんでいた。
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