なければいけないとも云った。わたしはお前一人が頼りだとも云った。
「ほんとにいいのよ。」と蔦子は云った。「ただちょっと……大連にでも行ってみようかと、そんなこと考えたことがあったけれど……。」
「え、大連に……とんでもない……。どうしてまたそんなことを……。」
 おしげが余りびっくりしたので、蔦子はへんにしみじみとした気持になって、この土地ではいろいろ働きにくいことを話しはじめた。むすめさんだとか、おしゃくから出てるひとだとか、よい看板の家から長年出てるひとだとか、そうした区別がやかましいことなどを述べた。おしげの方では、大連という土地が、まるで地獄のように遠いひどい処だと云いたてた。そんなことから、蔦子は、坪井のことやその結果の不始末のことなどを、つい話してしまった。おしげの顔はひどく曇った。
「その人と、いっしょになるつもりですか。」
「いいえ、おばさん、そんなんじゃないのよ。すっかり切れてしまうつもりだけれど、さしあたって、お出先への不義理を片附けなければならないから、それで困ってるのよ。あたしがばかだったの……。」
 それでもおしげは、ほんとにその人とは別れるつもりかと、何度も念を押した。蔦子は眼を丸くした。これからよい旦那をみつけて、おばさんにも楽をさしてあげると、なだめるように誓った。おしげは深く溜息をついていた……。
 そうした翌日の晩、坪井がお金をこさえてきて、二人でのんびり飲みくらして、翌朝正午頃までも、ぼんやり顔を見合せたのだから、思いだすと、蔦子はおかしくてたまらなかった。
 彼女は坪井の顔を眺めながら、自分はほんとにこの人を好きなのだろうかと考えてみた。髪の毛のこわい、色の浅黒い、がっしりした体格で、濃い眉の下に、眼がくるくるっと太く丸く見えるのが特長だった。それを見てると、彼女は梟の眼を思いだした。
「ねえ、坪井さんと情死《しんじゅう》したら、あたしたちのこと、新聞に出るでしょうか。」
「そりゃあ、一応は出るだろうよ。」
 それだけで、坪井もぼんやりしていた。第一、情死だとかいっしょになるとか、愛の誓いだとか、そんなこととは凡そ縁の遠い二人の関係だった。それでも深い仲で、無理をしいしい逢い続けて、馴れない家の二階に追いつめられてる身の上だった。それにまた、蔦子の方はもとより、坪井の方も、性的の強い慾望もないのだった。坪井は珍らしそうに、蔦子
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