の本名なのである。
「もうとてもいかんよ。僕は死のうかと思ってる。」と彼は微笑しながら云った。すると彼女は、別段驚きもせず、彼にいらえてやはり微笑している。あと一週間か十日だよ、と彼が云うと、彼女は答えた。
「ではあたしも、それまでに用意しておくわ。」
簡単至極である。その時彼女は電気スタンドの紐をいじくっていたが、ふいに、ぽつりと一粒の涙を眼に浮べて、それをまぎらすように、また微笑してみせた。
ひどく冷かなものを彼は感じたのだった。普通ならば、どうしていけないのか、どれくらいの借金があるのか、どれくらい財産があるのか、収入はどれほどか、そうしたことをいろいろ尋ねて、果して死なねばならぬほどであるかどうかを確める筈である。そして愛する者を生かしたい、お互に生きたい、生きて愛したい、そう思うのが人情であろう。然るに彼女は、何一つ尋ねなかった。彼の状態について何一つはっきりしたことは知っていなかった。金銭上の事柄については彼は何にも話してはいなかった。そして彼がいきなり、もうだめだから死のうかと思ってると言い出すと、微笑を浮べながら云い出すと、あたしも用意しておこうと云うのだ。それ以上の冷淡さがあろうか。彼が冷りとして眺めると、彼女は涙を浮べながら微笑してみせるのだ。
その冷淡さを彼は考えまわしたのだった。そしてはっきりした解釈がつかないうちに、いつのまにか、彼女と一緒に死のうという決心になっていった。これまでぼんやり死のことを考えていた時、彼は一度も彼女と一緒に死ぬなどという気持にはならなかった。死ぬのは自分一人のことだった。ところがふいに、彼女の冷淡な言葉にふれて、彼は彼女と一緒に死のうという気になった。
「それが、発見なのだ。」と彼は私に云った。
これはもうどうも仕様がないことかも知れない、そんな気持に私もなって、彼に連れられて、彼女――千代子に逢いにいったのである。
廊下が際立って美しく拭きこまれ、床の間の活花がばかに新鮮で、掛軸の長押の額が古風な、奥の一室で、私と彼とは酒を飲み初めた。二人とも可なり酔っていたが、まだだいぶ飲めそうだった。杯を見ると彼は嬉しそうににこにこしていた。私はともすると考えこみがちだった。
随分待たしておいてから、千代子は息を切らしてやってきた。「おう苦しい。」それが彼への挨拶で、とたんに坐りなおして、しばらくと私に挨拶をし
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