だと聞くと、十日間ばかり徹夜の形で或る仕事をすましたと云う。
「仕事の義務だけは果したいのだ。」
 それが、彼の所謂本当の仕事かどうか聞きたかったが、彼の晴れやかな表情だけで満足して、私は黙っていた。すると面白い発見をしたといって、彼は嬉しそうに微笑している。私はまたかと思ったが、全く別なことだった。
 徹夜をして、夜がほんのりと明けてくる時、雀の声をきくのが実に嬉しかった、と彼は話す。彼の書斎の窓際に大きな椎の木があって、それに沢山雀がきた。夜明けに一番早く眼をさますのは雀らしい。そして、眼をさますとすぐに楽しく囀り交わす。彼はその雀たちのために、窓の外の庇に米粒をまいてやった。いつのまにか食べてしまう。然し人が覗いているうちには決して近寄らない。いくら馴らそうとしても馴れない。ところが仕事をすました朝、彼が放心のていでつっ立って、ぼんやり夜明の空を眺めていると、雀がすぐ側まで来て米粒をひろっているのだった。気がついて眼をやると、雀がぱっと逃げてしまった。
「偶然の一致だろう。」と私は云った。
「偶然じゃない。自然界はそうしたものだ。」
 彼はそれを信じきっているらしかった。そしてその発見がとても嬉しいという。そんなことを話しながら、彼は私を誘った、支那料理のさっぱりしたものだけで老酒を飲むのだと。金が少しはいったから心配はないという。そして連れだって歩いているうちに、ばったりと、まるで足の骨が折れでもしたように、彼は躓いて倒れた。手をかしてやると、すぐに起き上ったが、眼に一杯涙ぐんでいた。私は眼を外らした。芝居や映画などで、いつも私のことを泣き虫だと笑っていた彼だ。嘗て涙を見せたことのない彼だ。気がついてみると、彼の歩き方はふらふらして力がなかった。よほど無理をして仕事をしたに違いなかった。
 普通の日本座敷で紫檀の卓で、二三の料理に老酒を飲んでるうち、彼は淋しい顔をして、呼んでもいいかときいた。千代子のことだ。私は分ってはいたが黙っていたのだった。
 彼女は黒襟のかかった平素着でやってきた。やはり朗かそうだった。一体私は、ひどく頼りない感銘を彼女から受けるのだ。何だか磨きの足りない、伝法肌の気まぐれな朗かさが、そうした感銘を与えるのかも知れないが、私はそれを飛行機だと冗談に云っていた。いつも飛行機に乗っているような彼女と、元来はのんびりした物にこだわりのない彼
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