という論拠なのだ。然し僕にとっては、彼女は愛人なんかではない。情婦というにも価しない。ただ僕は、消極的に、鄭重に、彼女を待遇してるだけのことだ。本当に愛情を持つ場合には、何等かの意味で、積極的になり、攻勢的になるものだが、僕は彼女に対してそんなことは嘗てなかった。ただ、何事をも拒まなかっただけのことだ。
「室の壁を塗り代えさせたいと思うんだけど、壁土が乾くまではとても冷えるんですって……。だから、その間、あなたんとこへ泊りに行っていいかしら。」
 そういう三千子の提案を、僕は無条件に承知したに過ぎない。実際、ムラサキの二階の彼女の居室には、左官屋が仕事を始めた。彼女は近所の便利なところに、泊り場所ぐらいは見つけられた筈だが、夜遅く、電車で僕の家へやって来た。そして朝寝坊をし、午後になって出かけて行った。僕はなんにも構わず、彼女の為すままに任せておいた。
 僕の方も宵っぱりの朝寝坊だ。亡父の時代からの写真業の方は、だいたい原野がやってくれているから、僕は道楽の古代文字研究に耽ることが出来るのである。碑面、塋窟の壁面、石器や陶器、其他種々の考古学的資料などについて、夥しい写真を蒐集している。実物でなくて写真で済むから便利だ。それらを仔細に観察してゆくと、文字だと思われるものが実は模様だったり、模様だと思われるものが実は文字だったり、そして最後には両者の区別のつかない一線につき当る。その線上では、人間の言葉と身振りとが合致するのだ。
 夜更けまで、書斎で文献を読みあさっていると、三千子がやって来る。家の者はみな寝てるので、自分で戸締りをして、書斎にはいって来、熱い茶をいれて飲む。そういう約束になってるのである。
「ああくたぶれた。……まだなの。」
「もうちょっと。先にやすんでていいよ。」
 彼女は不満そうに、火鉢の炭火をかき立てて、何かと僕に話しかける。だが、まとまった話題のある筈はない。古代文字なんかに彼女が興味を持たないと同様、酒場の些事なんかに僕は興味を持たないのだ。
 伊豆山温泉に行った時も、そのことで彼女に怒られた。朝から少しばかり酒を飲んで、僕はただ、浜辺に鴎が群れ飛ぶのを眺めていた。彼女はいろんなことを話しかけた。酒場の経営に骨の折れること、貸し倒れが多いこと、陽気な客のこと、陰気な客のこと、嫌味たらしい客のこと、好いたらしい客のこと……ほんとに好きになりそ
前へ 次へ
全12ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング