髯が伸びており、頬は蒼白く肉が落ち、眼は凹んで底光りがしていて、どこからそういう変化が来たのか捉え難かった。軽い驚きで眺めていると、ふと可笑しな比較が私の頭に浮んだ。今迄の彼の顔を殼のままの鶏卵であるとすれば、今の彼の顔は、殼をはいだ白身と黄身とだけのそれだった。そして私は或る聖い恐れをさえ感じた――臨終にぱっと輝く生命の光り、それに対するような聖い恐れを。でも彼は、熱も下り脈もよほど順調になっていて、平静な呼吸をしていた。
「気分が大変いい。」と彼は云った。
「昨夜つい遅くなったものだから……。」と私は弁解するように云った。
「そうだってね、よく眠れたかい。」
「ああ。」
「僕は非常によく眠れる時があったり、ちっとも眠れない時があったりするんだが、どんな場合にでも眠るのはいいことだね。でも、昨夜は眠れなくて却っていいことをした。」
「いいことって……。」
「お影で月を見たよ。いい月夜だと君が云ったのを思い出して、それが是非見たくなって、あの人とさんざん云い争って喧嘩をした揚句、とうとう雨戸を開いて貰って、障子の硝子から眺めたんだが、沈みかけた半分ばかりなのが実に綺麗だった。……が不思議だねえ。月の光を見ると同時に、虫の声が急に聞えだしてきて、後で雨戸を閉めてからも朝まで聞えていた。それまでは少しも聞えなかったのに……。」
「それはただ気付かなかっただけのことじゃないのか。」
「いや、しいんとしていて、僕は何かに聞き入るような心持でいたので、気付かない筈はなかったのだ。月を見てから後は雨戸をしめても、うるさいほどはっきり聞えたんだからね。」
「何だか夢みたいな話だね。」
「ああ全く夢みたいな話さ。月を見ながら、あの人がお伽噺をしてくれたんだから。」
「お伽噺を……。」
「そうだまあお伽噺だ。」
 その声を聞きつけてか向うの隅で何やら話し合っていた敏子さんと看護婦とが、一度に顔を挙げて私達の方を見た。看護婦はもう朝の身仕度を済していたが、櫛の歯のよく通った大きな束髪と顔に塗った仄白いものとに対照して、まざまざと睡眠不足の疲れが現われてる頬や額の皮膚の下に、何だかこう厳粛な一途な信念とでもいうようなものが露わに覗き出していて、ぴんとした細い一文字の眉が一寸美しく見えていた。が敏子さんの方は、もう先刻の興奮からさめて、解き放されたような安心しきったような風に、細面の頬の肉
前へ 次へ
全21ページ中20ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング