上には、小さな紙きれが載っていて、「何人をも罪する勿れ、余みずからの業なり。」と鉛筆で書いてあった。同じ卓の上には、一挺の金槌と、石鹸のかけと、あらかじめ予備として用意したらしい、大きな釘が置いてあった。ニコライが自殺に使った丈夫な絹の紐は、まえから選択して用意したものらしく、一面にべっとりと石鹸が塗ってあった。すべてが前々からの覚悟と、最後の瞬間まで保たれた明確な意識とを語っていた。
町の医師たちは死体解剖の後、精神錯乱の疑いをぜんぜん否定した。
「カラマーゾフの兄弟」――
「では、これで話は止して、これから法事に参りましょう。プリンだって心配せずに食べればいいんです。あれは古い古い昔からの習慣で、その中には美しい点もあるのです。」とアリョーシャは笑って、「さあ、行きましょうよ。さあ手をつないで行きましょう。」
「そして永久にそうしましょう、一生のあいだ手に手をとって行きましょう! カラマーゾフ万才!」とコオリャが歓喜のあまり再び叫ぶと、少年たちももう一度その声に調子を合せた。
勿論、茲でもこれだけの引用では足りないが、最後の数行に敬意を表することによって説意の補足としたのである。最初の二作のものは、一種のエピローグの最後であるが、エピローグを付けたことに注意を要するし、「悪霊」のものは、明確な意識を以て為されたということに注意したい。
さて、あれほど陰惨な物語の最後に、右のような数行が、或はその他の数頁が書かれたのである。――一体、小説の結末というものは演劇の幕切れとは異なり、まして映画の結末とは異って、さほど光明を与えなくてもよいものであり、人を安堵させなくてもよいものである。悲惨な気分のうちに読者を放置した小説も多い。然し茲ではそういうことは論外としよう。
論旨は、作者自身の呼吸に在る。作品全体の詳細な解釈をすることをやめて、以上の不備な引用の延長線上に於て、直ちに云えば、作者は最後にほっと吐息をしているのである。
そしてもうこの吐息については、肉体的なものであると共に、より多く精神的なものであると云って差支えない。巨大な苦渋陰惨なものを持ちこたえてきて、今や、その奥にともっていた一点の火を、或は顧りみ或は打仰いだという感じである。その感じを体得するには、これまで持ちこたえてくることが必須条件だった。そしてかかる吐息のなかにこそ、希望が、夢が、また思想が、揺ぎなきものとして確立される。
思想や夢や希望など、それらのものは初めからあったのではないかと、反問することを止めよう。勿論それらは初めからあった。如何なる作家にも如何なる作品にも、それらは多少ともある。然しそれらが揺ぎなきものとして確立されるのは、作品の全重量を荷い通された時のことである。荷い通されずに作品が中途で投げ出される時、または作家が中途で腰くだける時、思想やそれらはなまのままとして残る。コンクリートの中に納まって堂宇を支える鉄筋とはならずに、草の上に曝された錆鉄となる恐れがある。
然らば作家は常に、それぞれの作品の全重量を荷い通さねばならないのであろうか。無論そうである。そうではあるが、最後にほっとつく吐息が高らかな歓喜の歌となるような、少くとも単に歌となるような、そういう道程はないものであろうか。思想や夢や希望からじかに出発する道程はないものであろうか。この間の消息について、或る種の童話や神話や経典が何等かの示唆を与えてくれないであろうか。
そういうことこそ、多くの作家の夢想であり、殊に建設的な文学を意図する作家の楽しい夢想であろう。――ただ、この夢想の実現には多大の困難が克服されなければならない。文学創作上の事柄であって、様式の変革が条件として付随するからである。それはそれとして、この場合の一道の光明は、思想や夢や希望などと、何等の矛盾や等差なしに列記出来ることにある。知性が持つところの感性と、感性が持つところの知性と、両者が渾然と一致するところの芸術的な境地がある。更に云えば、知性と感性とが融合するところの焦点がある。この焦点から観れば、恩恵も夢も希望も別物ではない。それらを単に作家的思想と呼んでもよい。そういう「思想」を作家は常に思索する。そういう「思想」のなかに作家は自己の魂を置くものである。
底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2006年4月26日作成
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