に身を投じたからそういう性質の事柄になったのであろうか。これは微妙な問題であるし、作者の思考の強さ激しさに依ることでもあるが、先ず、両者は相互関係にあるものと見られる。
さて、そういう性質の事柄のなかに身を投じてそれを持ちこたえるのは、単に創作技法の上だけでも、容易なことではない。その抜け途の技法の一つに、「わたくし」なるものがある。彼の作品のなかには屡々、得体の知れない「わたくし」という者が出て来て、その「わたくし」の眼や口や耳の力をかりて叙述が進められている。この「わたくし」は、或る場合には名前を持つこともあるが、然し決して一個の人物となることがなく、謂わば普遍的な人物であり、第四人称的人物であって、その存在を見せない場合にあっても、大抵その眼はどこかに見開かれている。――この第四人称的な「わたくし」は、人間性探求の文学が発見した創作技法の究極的なものの一つであろう。
ドストエーフスキー的世界から眼を転じて、現在吾々が当面してる文学のことを考えてみよう。ここでは、建設の文学が最も要望されている。建設にも種々あるが、つまりは生活建設の謂であろう。政治上の種々の画策、経済上の種々の改革、信念上の種々の確立など、それが個人的なものと民族的なものと国家的なものとを問わずいやしくも文学の中に於ては、生活という大地に即して考案される。そして更に文学の中に於ては、生活建設と人間性探求とは、生活とか人間とかいう概念が変化しない限りは一体の両面に外ならない。
然るに、建設の文学に於て、一応、「わたくし」的創作技法が排斥されるのは、何故であろうか。結論に飛べば、「わたくし」的技法などよりも、直接に思想に頼れと云われる。思想で事象を選択し整理して、直截に叙述せよと云われる。更に卒直に、「わたくし」の代りに思想を持って来いというのである。――茲に、何か忘れられてるものがある。思想が創作上にそういう風に使用され得るものでないのは、云うまでもないことであるが、問題は創作技法にあるのでなくて、更に先方にある。
ドストエーフスキー的世界に於て、ああいう性質の事柄を持ちこたえるのが容易でないのは、創作技法の上ばかりでなく、更に多く、当の作者の体力のことになる。精神と肉体と両方をこめた体力である。
作者と作品との関係は、常識的に考えられる建築物との関係とは異る。建築家は、大地の上に先ず基
前へ
次へ
全7ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング