るとき、大抵いつも階段に向って一杯あけ放しになっている主婦の台所わきを、通らなければならなかった。そしてその都度、青年はそばを通り過ぎながら、一種病的な臆病な気もちを感じた。彼は自分でもその気もちを恥じて、顔を顰めるのであった。彼は下宿の借金が嵩んでいたので、主婦と顔を会わすのが怖かったのである。
尤も、彼はそれほど臆病でいじけきっていた訳でなく、寧ろその反対なくらいだった。が、いつの頃からか、彼はヒポコンデリイに類した苛立しい張りつめた気分になっていた。彼はすっかり自分というものの中に閉じこもって、すべての人から遠ざかっていたので、下宿の主婦ばかりでなく、一さい人と会うのを恐れていたのである。……
「白痴」――
十一月の末のことであった。かなり暖い朝の九時頃、ペテルブルグ・ワルシャワ鉄道の一列車は全速力でいよいよペテルブルグに近づいていた。あたりは湿っぽく、霧が深く、漸くにして夜が明け放れたと思われるくらいであった。汽車の窓からは、線路の右も左も、十歩のそとは何ひとつ容易に見わけがつかなかった。旅客の中には外国帰りの人も交っていたが、それよりは寧ろ三等車の方がずっと込んでいた。この方の旅客はいずれも程遠からぬところからやって来た小商人たちであった。例によって彼等はいずれも疲れきっていた。一晩のうちに眼は重くなり、からだは冷えきって、誰もの顔が霧の色にまぎれて薄黄いろくなっていた。
三等車の或る一室に、夜明け頃から互に向き合って坐っている二人の旅客があった。二人とも青年で、いずれも身軽で、服装も贅ってはおらず、どちらも極めて特徴のある顔をしており、二人とも、やがては話でも交わしたそうな様子をしていた。若しも彼等が互に、特にこの場合にどんなところで自分たちが際立っているのかを知り合っていたら、彼等は必らず自分たちが不思議な偶然によって、ペテルブルグ・ワルシャワ線の三等車に膝をつき合わして坐っていることに、今更ながら驚いたことであろう。……
「悪霊」――
わたしは今この町――別にこれという特色もないこの町で、つい近頃もちあがった、奇怪な出来事の叙述に取りかかるに当って、凡手の悲しさで、少し遠廻しに話を始めなければならぬ。つまり、スチェパン・トロフィーモヴィッチ・ヴェルホーヴェンスキイという、立派な才能もあれば、世間から尊敬も受けている人の、身の上話か
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