伝統的な趣味がどこにも見えないばかりか、室全体が不調和な雑音を立てている。そして煖炉の一方に、小さな戸棚があって、洋酒の瓶やグラスがはいっている。「忙しい時に、睡気ざましにのむのだ。」と坂田は云っていたが、一体彼に忙しい時というものがあったかどうかは疑問だ。
 書斎の横手に、ベッドと小卓と洋服箪笥だけを置いた狭い室がある。夜おそく酔って帰ってきた時など、彼はそこに倒れ伏してしまうのだったが、ふだんは、そのベッドと他の日本室の方と、寝るのは気分によってまちまちだった。
 坂田はその書斎にいて、中津敏子を待っていた。――折入ってお話申したいことがございますので、今晩伺わせて頂きます……それほど懇意でもないのに押しつけがましい簡単な文句の速達便だったのである。坂田はそれをまた読み返し、手にまるめようとしたが、こんどは小さく引裂いて屑籠に投げこんだ。そしてちょっと微笑を浮べかけたが、それは憂欝な表情のうちに溺れてしまい、彼は眉根をよせながら煙草をすい初めた。
 やがて彼は、机の奥から小型の厚い帳簿を取出して、その第一頁からじっと点検しはじめた。数字と日附と簡単な文字とが並んでいる。それを辿りながら、彼は、時々額に手をあてて、記憶を呼び起そうとしてるようだった。
 チェッと俺は舌打ちした。そして彼の側に寄っていった。彼の憂欝な表情がどうもはっきり腑に落ちないし、第一気にくわないのだ。
 第一頁の最初に、一〇〇〇〇という数字が記入してある。これが彼の財産のそもそもの根源で、そしてこれだけは、俺の与り知らないところだったし、また彼の豪いところだといってもいい。
 彼の父が亡くなった後、彼と中学時代からの親友の室井がやって来て、どれくらい遺産があるかと尋ねた。だが遺産というほどのものはなかった。住宅、隣りの貸家一軒、母と彼との名義の貯金少々、他に時価二万円ばかりの株券及び公債、それで全部だった。然し、それで結構だ、と室井は云うのだった。そして五千円ばかりの担保物件を貸せといい出した。少しまとまった金の入用が出来て、五千円ばかり不足だから、銀行からそれだけ借りるための担保を融通してくれ、三年間の期限だ、二倍か三倍にして返してやろう、もし返せなかったら、君自身の力でそれくらいな担保は受戻せるだろうし、それも出来なかったら、遺産が少なかったと思って、諦めればいい……まあざっとそういう話だった。坂田は承諾して、公債を担保に融通してやった。すると三年後に、三倍の一万五千円ほど室井は持ってきた。万事うまくいったと笑っていた。そして彼自身は、可なりの金を懐にして、ぷいと満州に行ってしまった。信用のおけるようなまたおけないような快男子だ。――だが彼のことについては話が別になる。
 坂田は、銀行から担保の公債を受戻し、残りの一万円をそっくり相場に投じた。全く、拾ったも同様な金で、全部すってしまっても構わないという肚があったので、どんなにでも強気に出られたし、運もよかった……尤も、俺がついていたためではあるが。
 そこで、その帳簿の数字というのは、云わば無から湧いて出た金なのである。それを点検しながら坂田が憂欝になっていくのは、どう思っても俺の気にくわない……。俺は甘ったれた声で彼に話しかけてみた。
「どうです、愉快じゃありませんか。無から有を生ずるって、このことですよ。」
 彼はちょっと眉をあげたきりで、何の返事もない。
「無から有を生じ、次に、有から有を生ずる。金儲けの秘訣はそれですよ。私が云った通りでしょう。金をためるには、他の手段によらないで、金そのものをふやさなければいけない。これは真理ですよ。うまくいきましたね。」
「うまくいきすぎてる。」
 気のない返事だ。何か他のことを考えてるらしい。
「いや、そうばかりも云えませんよ。策戦がよかったんです。そら、ここを御覧なさい。随分あぶなかったじゃありませんか。売りにまわってるところを、値はずんずん上っていく、追証《おいじき》に追証と重ってきたじゃありませんか。それを三ヶ月ももちこたえたからよかったようなものの、もし短気を起すか、怖気を出すかしていたら、随分結果がちがってきたでしょう。」
「そんなことは問題じゃない。」
「では何が問題なんです。」
「必ずあたるというのが不思議だ。」
「まだそんなことを云ってるんですか。あたるのが当然じゃありませんか。天井をついたと思う時に売り、底をついたと思う時に買う、そしてそれが見当ちがいで、天井でなかったり底でなかったりすることがあっても、もちこたえるだけの余裕と胆力とさえあれば、何か大変な……革命みたいなものでも起らない限りは、株の値は時計の振子と同様ですから、やはり或る意味で、天井は天井になり、底は底になろうじゃありませんか。だからあたったことになる。ちっとも不思議じ
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