において、あやまるんですの。お嬢さまに別れるのがつらいから、悪いことと知りながら、このお着物を盗んで持って帰りました。お願いすれば下さることは分っていましたが、なんだか申しにくくって、だまって盗んでいきました。けれど、あとで心に咎めて、どんなにか泣きました。そして今日、お返しにあがりました、盗んだことをお嬢さまにだけ打明けて、罪を許していただくつもりです、お許し下さいませ……とそうなんです。あたしは乳母の首にとびつきました。そしてその着物をあげるといいました。けれど、乳母は受取ろうとしません。罪を許していただくためにお打明けしたので、お着物を頂戴するためではありません、といってきかないんです。でもとうとう、あたしは駄々をこねて、その着物を乳母に受取らせました。乳母はまた丁寧に、新聞紙に包み、風呂敷に包みました。夕日がもう沈んで、ぼーっとした明るさでしたけれど、乳母の顔はとても晴れやかでした。あたしは乳母の手につかまって家に帰っていきました。その時のことが、いつまでも忘れられませんの……。」
敏子は口を噤んでからも、身動きもしないで、眼を室の隅に据えていた。顔は冷たく澄んで何の表情もなかった。坂田からじっと見られてることに無関心らしかった。
坂田の眼はぎらぎら光っていた。頬には赤みがさしていた。彼は話をよく聞いていなかったらしい。何かに反抗するように身振をした。暫くして立上ると、敏子を見つめたまま一二歩近づいた。
「そんな話はもうやめましょう。然し……。」
彼は躊躇した。
「あなたを……愛していたのは本当です……今でも。」
それは愛するのか憎むのか分らない調子で、そして敏子がかすかにおののいた時には、彼はもう敏子の肩に身をなげかけてそこに顔を伏せていた。敏子は彼を押しのけようとしたが、次の瞬間、眼をとじて、彼の頭を抱きしめた……。
俺は、ただじっと見ているより外はなかったのだ。二人の応対がばかに真剣だったので、俺が差出口をする隙がなかったし、なお、俺にはよく腑におちない複雑なものが底に隠れていた。それから、その夜の二人のことについては云うべき限りではないだろう。ただ、俺の予想が全く外れたのは、翌日の坂田のことだ。
翌朝、四時半頃に、坂田と敏子とは、前夜から開け放しの窓にもたれて外を眺めていた。もう東の空は明るくなって、中天の星は淡くまたたいていた。敏子の
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