らないんですか。あなたが、なぜそんなことをしなけりゃならないんですか。……これは、子供じみた、ばかげた、下らない思想です。けれど、そういう思想のために、人間が嫌になり、世の中が嫌になったとしたら、どうです。そして何かしらがーんとぶつかるもの……抵抗、そう抵抗です、それを求めて、酒をのんだり……芸者をくどいたり、デパートの売子《うりこ》を誘惑したり、そんなことをする男があったら、どう思います。而も……抵抗、そんなものがどこにあります。女は大抵売笑掃であり、男は大抵犬みたいな眼付をしていて、何事も金で解決出来るとしたら、どうなります。そして家に引込んで、何もかも嫌になって、始終うとうと居睡りをしてるとしたら、どうなんです。……私はそんな男です。あなたは軽蔑しませんか。しないというのは嘘です。軽蔑するでしょう。」
 坂田は立止って、じっと敏子の方を眺めた。眼の光がへんにうすらいで、本当に見てるのかどうか分らない工合だった。敏子はかるく身震いをした。坂田はまた歩きだした。
「ところが、そんなのが、幸福……幸運というもののせいだったら、どうでしょう。中津君はすっかり相場で外れたが、私はすっかりあたった。運がよかった。そして金が出来た。というのは数字がふえたんです。架空の数字が……。そしてその架空の数字が、人を宙に浮上げる、というより、崖っぷちに押しやる。高い断崖のふちです。……そんな時、その下らない男を、崖からつき落す……つき落してしまおうとは、あなたは思いませんか。」
 敏子はけげんそうに坂田を見た。
「そいつを、殺してしまおうとは思いませんか。」
「いいえ。」
 きっぱりした一言だったが、殆んど本能的に出たもので、敏子はそれを他人の声ででもあるように聞いたらしく、明かにまごついて……そして突然赧くなった。
「なぜ殺さないんです。」
「自分では殺しません。」
「自分で殺さない……。」
「誰かに殺させます。」
 その咄嗟の問答を、二人はじっと眼を見合せながらなしたのだが、それからなお暫く、そのまま釘付けになっていた……。敏子は身を引いた。坂田はよろけるように椅子に坐った。
 坂田は椅子の上で、眼をつぶった。彼の頬は全く血の気がないといってもいいほど蒼かった。
 敏子は二度ばかり、立ち上りかけてはまた腰を下した。それから室内を、その家具や装飾品を一つ一つ、はっきり心にとめるため
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