てなお、自棄《やけ》気味の放蕩から会社も止めなければならなくなり、家には細君の産後の病気もあり、切端つまって、坂田に相談をもちかけてきた時、坂田はそれを引受けてやった。そして負債全部をすまして、今後相場などには手を出さないという条件で、一万七千円の小切手を書いて渡した。中津は今後のことを誓った。そして心から感謝して、それを妹の敏子へも打明けた。敏子は顔色をかえた。彼女はその頃、生活の苦しい余りに、自ら進んで、或るデパートに勤めていた。ところが、ふとしたことから、そのデパートの朋輩の一人を、坂田が誘惑して弄んだことを知っていた。甘言で誘って、どこかに連れこんで手籠めにしたとか、其の後問題になりかかったのを、デパートの支配人に手を廻してうやむやに葬ったとか、事の真相は茲に明かすべき限りでないが、とにかく金銭を以て非道を行ったとの話である。その上、敏子と坂田との間にも何か感情上のもつれがあったらしく、後になって想像される。要するに敏子はひどく憤慨した。デパートにまで出勤している自分の立場を説き、兄を責め、坂田を罵り、坂田の小切手を引裂いてしまったのである。中津は意外の結果に呆然とした。そしてどうにか敏子をなだめ、引裂かれた小切手の破片を持って、坂田に詫びに来た。事情を隠すわけにもいかなかった。坂田は小切手を書きなおして与えた。そして云った。「僕は弁解はしないが、その事件についてはいろいろ誤解もあるようだ。然し、敏子さんの方が恐らく正しいかも知れない。」それきりで、彼はもうその問題にふれたくない様子だった。というよりも寧ろ、そんなことは些事で、もっと重大な問題が彼の心に浮んできたらしい様子だった。

 坂田は椅子に深く身を托して、返事を待っていた。敏子は彼の顔を見つめたまま黙っていた。
「どういう御用ですか。」と坂田はくり返した。
 敏子の眼には苦悩の色が浮んだ。それをじっともち堪えているうち、彼女の顔は冷くそして美しく輝いてきた。彼女は兄と十二三も年齢がちがい、その間の二人の姉も、一人は結婚し一人は夭折していたが、彼女よりずっと年上だったせいか、彼女のうちにはのんびりした我儘さが残っていて、それが理知的な色に包まれ、更に苦悩の色にそめられると、新鮮な美しさを現わすのだった。そしてまた顔立も、肩が少しくいかついわりに細そりしていて、人中にいる時よりも一人になるほど目立ってく
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