そんなら、君の話は分らんよ。」
「世間が分らないんでしょう。」
「そうも云えるが……。」
 矢杉は口を噤んだ。何やら腑におちるようなおちないようなものの中から、李の一面にはっきり触れた気がしたのだった。李の在学理由、故意に引延された在学の理由は、要するに、彼一己の道徳と対世間的策略との二つに依るものらしい。前者には、一種の自己偽瞞の気味があるが、その底に何か他のものが潜んでいるらしい。後者には、半島出身者の苦渋が見えるが、然し一般に云っても恐らく当ることであろう。そしてこの両者を合せ考える時、李の人柄のうちに或る恐ろしいものが浮んでくるようであった。然し矢杉にはそれがまだはっきり掴めなかった。ただ李のてきぱきした率直な言葉のなかに、彼の思想の力というようなものを感じた。そして、彼の顔から眼を外らして、沈思の気持に誘われるのだった。
 お茶の水駅東口に来ると、矢杉は電車に乗るために別れようとした。その二三歩あとから、李に呼びとめられた。
「先生、吉村さんへ御紹介して下さいませんか。」
 そのことを矢杉はもう忘れていた。紹介するなら手紙でも書いてやろうかと思ったが、それを止めて、聖橋の欄干の上で、名刺に簡単な文句を書きつけて、李に渡した。

       二

 李永泰は矢杉の名刺紹介で、吉村を訪れて来た。別に文学や文章に関する問題を提出するでもなく、ありふれた雑談だけで、而も多くは、吉村から聞かれるままに朝鮮の話などをし、一時間ばかりで帰っていった。ただ漠然たる興味で、吉村という存在を眺めただけのようだった。
 それから時々、彼は吉村を訪れて来た。仕事中だと、不服らしい眼色もせず、にこにこして帰っていった。隙な時には、一時間ばかり雑談していった。そして如何なる雑談の折にも、彼がはっきりした断定の言葉を吐露するのを、吉村は見落さず、次第に好感がもてるようになった。
 二ヶ月ばかりたった頃であったろうか、彼は数枚の原稿を持って来た。吉村はその短いものを、彼の前で読んでみようとした。
「お預けしておきます。あとで読んでみて下さい。」と李は云った。
 その言葉が、平素の李には不似合なので、吉村は却って好奇心を起した。
 李の原稿というのは、小説とも小品ともつかないもので、筆致にも精粗のむらがあり、文章にも所々怪しいところがあったが、大体次のようなものである。――尤も、茲に掲出
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