るのに、日本文や諺文や漢文にそれらの記号が少いのは、どういうわけだろうかとの疑問にとび、矢杉の知人で、創作もやれば翻訳もやってる吉村なんか、文字の誤植よりも句読点の誤植の方がよほど気になると平素云っていることなどが、もちだされた。そして吉村の意見でも聞いてみないかというようなことから、矢杉は相手の学生の名前の李永泰というのを知り、また更にその顔を眺めたのだった。
 李永泰という名前は、矢杉の記憶の中にあった。数ヶ月前、植民政策についての学年末の試験の答案を見ているうち、注意を惹かれた一葉が、李永泰のそれだったのである。一体、学生の答案のうち、短くて汚いのは拙劣で、長くて綺麗なのは優良であって、而も不思議に、短いのは汚く、長いのは綺麗である。然るに李永泰のは珍らしく短くて綺麗であった。手蹟が立派なのは、半島出身者として諾けるが、句読点を整然とつけた文章で而も要点だけが簡明に書かれていた。その美事な手蹟と明晰な文体とに接して、矢杉はちょっと、答案調べの憂鬱さから救われた気がした。そして学校の教務課へ点数を報告する折、懇意な事務員と顔を合したので、別に何ということなく、李永泰の全般の成績を聞いてみた。どの科目もみな優良だった。ただ一つ不思議なのは、各学年の修了科目がごく少数で、恐らく試験を受けたり受けなかったりしたのであろうか、普通なら三年間で卒業出来る筈なのに、もう四年間も在学していて、まだ三四の科目が残ってることだった。へんな学生だと、事務員も云っていた。
 そういう記憶が、矢杉の頭に蘇ってきた。
 座談会は散会となり、矢杉は自動車を断って少し歩くこととし、李永泰と話の続きもあるようで、自然に連れだって行くことになった。他の学生達と二人の教師とは、文章の問題などには興味がないのか、或は李が始終沈黙を守っていた末に矢杉と長々話しだしたのに遠慮してか、或は道筋が異るのか、別れていってしまった。
 矢杉は李と二人で、小川町の会場からお茶の水駅東口の方へ、広い静かな街路を、少し酒にほてった身で夜気を吸いながら、ゆっくり足を運んだ。
 話題は文章のことから離れて、矢杉の好奇心の向く方へ動いていった。そして旧知の師弟の間に於けるような会話が続いた。
「君はどの科目も成績が優良なのに、どうして五年間も学校にぐずついてるんだい。早く卒業した方がいいじゃないか。」
 そんなことを矢杉が
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