ろもろの形式であり、甲殼である。それを突き破らなければ、将来への息吹きが通わない。それ故文学者は、現実に対する反逆児となり、現実との格闘者となる。
 そこで、私はまた早速に言う。右のような反逆や格闘を内に秘めていない文学を、私は低俗なものとして軽蔑する。もとより、日の光りを楽しみ、自然を愛し、人間を慈しみ、生きてる悦びを歌う、そういう文学は、美しいものであろう。然しそういうことが、今日の条件に於いて果して可能であろうか。可能だとするには、白痴的なものが必要であろう。白痴は精神の一種の麻痺だ。麻痺から覚醒した精神は、今日の条件では、反逆児になり格闘者たらざるを得ない。――それほど大袈裟に言わずとも、一歩妥協して、文学は美しいものであれかしということを是認してみよう。ところで、作品の美しさそのものに、古さと新らしさとを吾々が感ずるのは、何に由来するのか。美に新旧はない筈だ。この問題を追求してゆくと、反逆的な何物をも持たない作品はすべて古く、反逆的なものを持つことの多い作品ほど新らしい、ということが発見される。そして現在、古い感じのする作品が、新人たちのそれにさえ、何と多いことであるか。
 今日の条件、この言葉を私は何の説明もなしに度々使った。そして茲で一言すれば、冒頭にのべたような遙か彼方の社会、私の謂わばユートピア、それの実現をはばむあらゆるものの現存を、私は今日の条件と言うのである。人は誰でもそれぞれのユートピアを持っているに違いない。そしてその種類によって、今日の条件も異った性質となるだろう。然しながら、今日の条件そのものの存在は否定出来ない。そしてこの条件を前にして、絶望が生れる。而も今日の条件は深刻に悪化している。現代の絶望ということが説かれる所以である。
 だが然し、文学に関する限りに於いて、私はそのような絶望に対して絶望はしない。絶望と希望との関係は、文学の場にあっては、偶然と必然とのそれに似ている。時とすると、両者入り交って見分けがつかない。絶望の文学と称せらるる作品を仔細に読んでみるがよい。少くとも私は、それらの絶望が如何にほのぼのとした明るみを湛えていることを大抵は感ずる。その明るさは希望のそれに似ているのだ。もしも希望の文学と言えるような作品があるとするならば、そしてそれが立派な作品であるならば、恐らくはその底に、絶望のそれに似た暗さを湛えてはいないだろうか。――このことは、人間的なもの、人間の本性、それに起因する。文学は常に人間そのものを凝視するのだ。
 それ故に私は、今日の条件というものを、政治的に理解されることを忌避する。もとより、現在から将来に亙る人間の考察に当っては、孤立した個人を抽出することは殆んど不可能であり、個人は常に、何等かの集団の一員、社会の一員として、不可分に存在するものとして理解されなければならない。だから人はみな、広義の政治の中に生きている。けれども、現在の一般通念としては、政治は権力観念と不可分の関係にある。そしてこの権力観念こそは、今日の条件のうちの最悪なものの一つなのだ。文学はそれに反抗する。つまり、所謂政治の線に沿っては進まないで、別なコースを取る。――所謂政治の線にのみ沿って進む文学が、人間的血液の乏しい傀儡ばかり跳梁する拵え物に、ともすると転落する例は、あまりに多く見られた。政治を権力観念から解放することも、文学の一つの仕事であらねばならぬ。
 彼方の社会、そこでは文学が無償のものとなり、数々の技能が咲かせる花の一つとなる、そういう社会が実現するまでは、文学は、私の要望する文学は、常に苦難の途を辿り、反逆闘争の歩みを続けねばならないだろう。そしてそういう文学を背負い込む宿命を甘受する文学者に、私は同感と敬意とをこめた握手の手を差出す。
 さて、この文章は、文壇への提議として書くことを求められたものであり、恐らく何か一つの具体的な発言を期待されたものであろう。私はそれを直接になさず、裏側からの概括的な発言をしてしまった。言いたいことが多すぎたせいもある。だが、要するに評論や感想というものはどうも変梃だ。如何にして小説的表現を多分に取り入れるかが、懸案である。



底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
   1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2006年4月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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