眼がさめてるなら起きておいでよ。」
母の声は案外やさしかった。で私は飛び起きて、着物をひっかけながら、炬燵の方へもぐりこんでいった。
餉台の上には、蛸の足だの※[#「魚+昜」、498−下−5]だの海苔などが並んでいた。父はそれらのものには手もつけないで、ただ酒ばかり飲んでいた。それもいつものように濁酒ではなかった。私は※[#「魚+昜」、498−下−7]を貰ってしゃぶった。
「啓太郎でもいてくれると、これからのわたし達も楽なんだがね。」
そんなことを母はしみじみと云い出していた。それから暫く話は啓太郎のことになっていった。私は何となく嬉しかった。父母がそんな風にしんみりと彼のことを話すのを、私は余り見たことがなかったのである。
私は長兄啓太郎については、非常に清らかな記憶を持っていた。彼の死骸が砲兵工廠から運ばれてきた時、私はまだ六歳にしかなっていなかったが、彼が死んだとはどうしても思えなかった。木香《きが》のぷーんとする白木の棺の中に、真白な布にくるくる巻かれて、誰が入れてくれたものか、黄色い花の中に寝ていた。その寝顔を、私は父の腋の下から覗いた。いつも落凹んだ恐い眼付だったが、その時は、金魚の出目を思わせるように、閉じた眼瞼が円くふくらんでいた。口が半ば開いていた。小鼻がぴしゃんこになっていた。その全体が、どこか道化た異常なものに見えた。で私はその瞬間、兄はえらい者になったような気がした。
その感じが、後々まで私の頭から去らなかった。
「機械が悪かったんで、お前の兄さんが悪かったんじゃない。それを役員達は、お前の兄さんの方を悪いことにして、たった二百円で済ましてしまったのだ。」
寺田さんはそういう風に私に話して聞かしたことがある。兄が巻き込まれた調革《しらべがわ》には、前から少し損所があって、そこに兄の上衣の裾が捉えられたのを、役員達はどうしても是認しないで、兄が巻き込まれたために損所が出来たのだと主張したそうである。
然し幼い私には、そんなことはどうでもいい問題だった。ただ兄の死体の印象だけが大事だった。そして私の頭の中には、兄が何だか異常なものに……神にでもなったような幻想が次第にはっきり出来上っていったのだった。
暫くすると母は何と思ってか、押入の隅っこにある小さな仏壇に、蝋燭をともしたり線香を上げたりした。しまいには声にまで出して、南無阿弥
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