。かと思うと、その眼がまたすぐにじくじく水気ずいてきて、小さくどんよりとなって、箸の手を休めて物を考えこむのだった。
何かえらい事が起るんじゃないかと、そういう気が私はした。ところが実際は、全く思いもかけないようなことになっていった。
私は妹と二人で炬燵にあたりながら、新聞の広告の大きな字などを、虫眼鏡で眺めていた。それは隣りの寺田さんから貰ったもので、鯨骨の柄のついた非常に大きなものだった。
「普通の者がいくら欲しがったって、なかなか手にはいらない立派なものなんだから、大事にしまっておけよ。これでこんな風にして空を見ると、眼に見えない星が見えてくる。太陽を見ると、表に黒い汚点があるのだって分るんだ。」
その太陽という言葉が私には嬉しかった。然し太陽を透し見ると、ただ一面にぎらぎらするだけで、どこにも黒い汚点なんか見えなかった。ただ、夜の空を眺めると素晴らしく綺麗だった。昼間でも星がよく見えた。
それを、新聞の大きな字の上にあてると、黒い線の中にいろんな形が白く浮出してきた。花や虫や変梃な模様が、次々に現われてきた。「ほら……ほら……。」と小声で囁きながら、私は妹に見せてやった。私達子供はおとなしくしていなければいけないような気がしたのだった。
母は用が済んでも炬燵の方へやって来なかった。火鉢の前に坐って何か調べ物を初めた。
箪笥の下の方の片隅に、黒い鉄の延板がやたらに打ちつけてあって、そこに、手文庫代りの小さな抽出が幾つもついていた。母はその中から、いろんな紙片のはいってる袋や、小さな帳面や、黒い玉の小さな算盤などを取出した。そして、脂の多い皺くちゃな眼をしかめて、しきりに計算を初めた。――後で分ったことだが、母は内々知人の間に、日歩の金なんかを廻していた。それもごく僅かな額で兄の慰藉料や姉の身代金などから差引いたものらしかった。さんざん借金に苦しんできたので、自分でもそんなことをしてみたくなったのだろう。
計算が少しこんぐらがってきたとみえて、母は癇癪を起し初めた。口の中でぶつぶつ云ってみたり、器具にあたりちらしたりしていたが、しまいにその飛沫を私達の方へ持って来た。
「何をぐずぐずしてるんだい。寝ておしまいよ。」
「もう寝てもいいの。」と私は云った。
「寝ておしまいよ。」と母はくり返して云った。「またそんな役にも立たないものを持ち出して、何をして
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