っていた。そのことについてだけは、母も真面目に相談にのって、あれこれと就職口を頼みこむ方便を考えてやった。然しいつまでも父の職は見付からなかった。初め砲兵工廠を止すとすぐに王子分廠の方へ出る手筈だったらしいが、それももう駄目ときまっていた。
「お前さんがどじだからよ。」と母は腹を立てたような蔑んだような口の利き方をした。「だけど、長年苦労をしてきたんだから、暫く遊んでおいでよ。わたし達はお前さんを当にはしていないんだからね。」
「そりゃあ、どうせ俺はもう、世の中に用のねえ人間なんだが……。」
世の中に用のないということは、殆んど父の口癖となっていた。そしてそれはまた、父が口を噤む最後の捨台辞でもあった。その極り文句を吐き出してしまうと、いつもむっつり黙り込んでしまった。そしてひどく陰欝な顔付になった。それが、髯を剃ってる時には痛々しく見え、髯が伸びてる時には兇悪に見えた。
髯が剃られてるのと伸びてるのとで、人の顔の感じが甚しく異るのを、私は最初に父に於て見てきた。髯のない父の顔は如何にも善良そうで、世の中の苦労を嘗めつくしてきて弱りはててる、云わば温良な落伍者の感じだった。けれど、不精髯がもじゃもじゃ生えてる父の顔は、何だか世の中に始終不平を懐いていて、何かのきっかけがあれば、どんな悪事をも平気でやってのけそうな感じだった。
母もそれに気付いてると見えて、父が就職口を探しに出歩く時なんか、やかましく云って髯を剃らせた。が平素、父は髯を剃ることをひどく億劫がっていた。
或る時、父は一包みの古釘をどこからか持って帰った。そして火鉢の横に、厚い鉄板と金槌とを持出して、曲りくねった古釘を丁寧に伸ばし初めた。
「そんなことをして、何にするんだい。」
母は頭ごなしにやっつけていたが、父はただにやにや笑ってばかりいた。
その翌々日の夕方、山本屋の小僧に住み込んでる中の兄の啓次が、自転車で慌しくやって来た。真赤になって怒っていた。父が店にやって来て、古釘を貰っていった、自分は恥かしくて顔が上げられなかった、あんなことをして貰っては、朋輩に顔向も出来ない……とそう云うのだった。そして云うだけのことをぽんぽん云って、そのままぷいと帰っていった。
母はびっくりしたような顔付をしていた。兄が帰ってしまうと、暫くたってから、じりじり父の方へつめ寄った。
「お前さんにも呆れて物が
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