なく涙をほろりとこぼして、それから暫くは顔が挙げられませんでした。
梶さんは出発に際して、生命の危険を覚悟していたようでした。菊千代にも当分の生活に困らないだけのことをしておいてくれました。だが、南方行きの事情については、梶さんはあまり語らず、菊千代もあまり尋ねませんでした。二人の仲は、互に愛し合ったというのではなく、旦那と芸者との最も普通な水準だったでありましょうか。
それでも、菊千代の心に深く残ってることがありました。梶さんの出発間際に、公開の舞踊の会がありまして、菊千代は『高尾ざんげ』を出しました。戦争は次第に苛烈さを増して、踊りの会などもそれが最後かと思われました。梶さんは忙しい時間をさいて、永井さんと一緒に来てくれました。
菊千代は心をこめて高尾の霊を踊りました。塚の出から廓の物語など、自分でも気持ちよいほどみごとに運びましたが、どうしたことか、終りになってつまずきました。照明が変って夜明けの色が漂うあたりで、彼女の心は唄の文句から離れてゆき、稲妻の光りが交叉し、世の人の煩悩につきまとわれるあたりになると、もう彼女は高尾の霊になりきれず、なにか夢を追い求める一抹の気が、責め呵まれる形を崩してしまいました。そして最後に、塚の中へひっこむことが一瞬ためらわれる、そこのところを、別な気持ちから漸く調子を合せました。
楽屋で、お師匠さんは鋭い眼付きで菊千代をじっと眺めましたが、何にも言いはしませんでした。菊千代も、てれたように黙っていました。自分のうちに何かを見出したような心地でした。あすこのところまで高尾の霊になりきるには、すべてを捨て去らねばならなかったでしょう。それが出来なかったのは、やはり、梶さんに対する情愛のせいだったのでしょうか。それよりも寧ろ、梶さんの平安を祈る人間らしい意気、そういう風なものだったのでしょう。
それらのことすべて、敗戦によって押し潰されてしまいました。菊千代は空家になったばかりでなく、肥え太った人々の間でそれが公言されました。彼女は反撥して酒を飲みました。檜山啓三とはよい飲み相手でした。
気儘な勤めとはいえ、菊千代はさすがに、永井さんから呼ばれると、故人梶秀吉との義理合いもあって、顔を出さないわけにはゆきませんでした。永井さんははじめ、会社関係の人たちと一緒に来ましたが、次第に、一人で来ることが多くなり、菊千代の身辺の
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