上で煙草を所持していないのに気付いても、ただそれだけで、大して吸いたくも思わなかったことだ。煙草などは濃霧のなかに消えてしまえ。
霧そのものは霽れそうになかった。晴天ならば、霧島火山群の十八の主峯、それらが懐く噴火口、遙か遠くには鹿児島湾の風光など、秀麗な眺望が展開する筈であるが、今はただ朦々漠々たる雲霧に四方をとざされているのである。だが、私はそれを憾みとはしなかった。
思いは神代の古えに遡る。神話の世界の雲霧が、そのまま今も、高千穂頂上に渦巻いているのだ。海抜千五百七十四メートルは山としてはさほど高くはない。然しその峯は如何なる山よりもぬきんでている。日本神話の息吹きは、海洋神話の生ける代表者として、また生ける指導者として、大東亜海を蔽いつつあるからだ。近くには台湾高砂族の海洋神話が、遠くにはインドネシア種族のさまざまな海洋神話が、この息吹きのなかに抱擁されようとしている。
幻想は限りなく続き、そして幻想は時間を食う。私は我に返って立ち上り、濃霧のなかで大きく呼吸し、そして濃霧に感謝しつつ、宙空に浮いてる感じのその峯から、一気にかけ降りていった。
底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2006年4月26日作成
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