ものはもはや存在せず、ただ自然の風景が存するのみだと、そう説かれる。それは真実であればあるほど、吾々は自然に対する一種の郷愁を感ずる。地上の巣に対する空飛ぶ鳥の郷愁だ。
高千穂山腹の天然林のなかで、都市ははやくも遙か後方に遠ざかる。都市が後方に遠ざかることは、原始へと遡ることだ。
山道は、谿谷の左岸づたいに上ってゆく。谿谷のなかには、ささやかな流れがある。木の間がくれに見える谿谷は、青苔のはえた岩石で、そのなめらかな岩肌が川床となっている。岩肌の上を流れおちる水は、清冽だが、殆んど音を立てない。
十和田湖の水をおとす奥入瀬の谿谷は、急湍奇岩で人を魅惑するが、ここのささやかな谷川は、それが木の間がくれに隠見するだけに猶更、そして岩肌の上を音もなくすべり落ちるだけに猶更、人の眼を惹き心を惹く。
私はふと、三好達治の詩を思い起した。
[#ここから2字下げ]
この浦にわれなくば
誰かきかん
この夕この海のこえ
この浦にわれなくば
誰かみん
この朝この草かげ
[#ここで字下げ終わり]
詩の感覚を置き換えたのである。浦ではなくて山道だ。海ではなく天然林だが、深い天然林には静寂そのものの声が聞える。草ではなく溪流だが、ひそやかな谿流は眼を向けなければそれと分らない。
然し私は、足を早めなければならなかった。汽車の時間の都合で、余裕がなかったのだ。初め、霧島神社に参拝し、旅館の店先へ引返し、姿を変えてまた登山にかかったので、だいぶ時間を費し、そのため、六時間行程の登山を五時間半以内になさねばならなかった。
急ぐこと約三キロ、鬱蒼たる林の前方が忽然と開けて明るく、その外光のなかに、数本の赤松が空高く亭立している。
それが標識だ。天然林はつきて、低い雑木交りの小松林となる。道は乾燥し、空気も薄くなり澄んでくる。高原の感じだ。この感じは、登るに従って次第に、高原から山の背のそれへと変ってゆく。
ここに、真に高燥な大気がある。高原だけではいけないのだ。代表的高原たる軽井沢や戦場ヶ原や仙石原などに、湿潤な重い大気が漂っているのは地勢の故であろうけれど、那須や北軽井沢や赤倉や富士見なども、その大気は低燥という感をまぬかれず、山の背に至って初めて高燥となる。
高燥な大気の中では、思念も軽く、足も軽い。眼前の中空に聳ゆる峯に引かれて、二キロ半ほど登ったかと思うと、ここに
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