たような気がしました。それは余りに期待外れの言葉でした。で心を立て直すと、憤慨の調子で云ってやりました。
「香奠なんかの必要はありません。平田伍三郎が死んだということを、私はあなたにお伝えするだけです。」
彼女は大きな上目がちに私の顔を見上げました。その眼には愁いの影なんかはなくて、媚びを含んでるとさえ思われたのです。
「ええ、分りましたわ。有難うございました。」
そしてそれきりで私達は、一寸軽いお辞儀をして別れました。
私は暫くの間ぼんやり往来の真中に佇んでいました。気がついてみると、学生や労働者や勤人なんかが、実に沢山元気よく忙しそうに通っていました。爽かな朝日が街路に流れて、靄が薄すらと消えかかっています。その中で私は、彼女の印象を飛び飛びに思い浮べて、何だか急に未知の世界を覗いたような晴々しい気持になりました。
そうして、私が平田伍三郎の霊前へ差出した香奠の中には、私がひそかに彼女の分としておいた十円だけ、余計に包まれていたのです。
母上
私は今何だか新らしい気持で生きてゆきたい気がしています。国許から東京へ出てくる青年があったら、どしどし云って寄来して下さい。世話は出来ませんが、親しく交際したいと思っています。
底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2[#「2」はローマ数字、1−13−22])」未来社
1965(昭和40)年12月15日第1刷発行
初出:「時流」
1925(大正14)年3月
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年11月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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