橋の方から廻れ!」
男はすごすごと退いた。皆それを黙って見ていた。
暫くすると、橋の向うから七八人の者が駆けながら橋を渡って来た。巡査は何とも云わないで通さした。それを見て二三人の者がこちらから橋の上に進んでいった。私も急いでその後に随った。笹も咎めなかった。二十人ばかりの者は、橋を駆けて渡った。然しその後の者は、また巡査に堰き止められてしまった。
橋の向うは街灯が粗《まば》らで薄暗かった。その薄暗い中に群集が溢れていた。大勢の巡査が街路の真中に立っていた。騎馬の兵士が時々往ったり来たりした。遠く広小路の方まで、それらの群集と巡査と兵士とが続いてるらしく思えた。
橋の上で巡査と兵士等が何か相談をしていた。すると三人の騎馬の兵士が巡査等と協力して、電車通りを松住町の方へ群集を遂込み初めた。人々はなだれをうって退いていった。然しそれは後方の人に支え止められて遅々たるものだった。兵士等は馬の頭を人々の鼻先につきつけて、片端から一人残らず押し退けようとした。河岸《かし》に並んだ小屋の前に荒い石が積んであった。私はその石の上に上って小屋の戸口に身を避けた。大勢の者が其処に集っていた。兵士等はその方へやって来た。馬の頭をつきつけられて急いで身をかわすはずみに、石の上に転んだ者が一人居た。五十位の老人だった。立ちかけて彼はまたよろめいた。そして着物の裾をまくってみた。向う脛に擦傷がついて血が流れていた。それを見ると兵士等は向うへ行ってしまった。大勢の者がまた集って来た。
田舎者らしい老人は眼を瞬《しばたた》きながら地面に屈んで、懐から穢い手拭を出して傷所を結えた。それから周囲の者をじろりと見上げたが、手の甲で鼻を一つすすり上げて、そのまま松住町の方へ去って行った。
ただじっと眺めていた周囲の人々は、彼が跛《びっこ》ひきながら立ち去ってしまうと、急に頭を上げて、向うを見やった。其処には巡査や兵士等が居た。
「馬鹿野郎!」と誰かが怒鳴った。
「恥知らずめ!」とまた誰かが怒鳴った。
「やっつけろ!」と低くはあったが鋭い声がした。
その時群集のうちから「わーッ」と一斉に声が上った。小石が二つ三つ向うへ飛んだ。巡査と兵士とが七八人駆けつけて来た。また「わーッ」と群集のうちから声が上った。巡査と兵士とは六七歩前に立ち止った。群集は徐々に退きはじめた。私のすぐ前に、帽子も被らない角刈の職人体の若い男が二人居た。一人は紺絣の着物をき、一人は浴衣をきていた。紺絣の男が浴衣の男の耳に囁いた。私は彼等の後に押しつけられていたのでその声が聞き取れた、「おい手がついたぞ」浴衣の男は紺絣の方を見返した。二人は何やら眼で相図をした。すると彼等は急に人込みを押し分けて逃げ初めた。その時私は、一人の浴衣の背中に銅貨大の赤い印《しるし》がついているのを認めた。二人が逃げ出すと、一人の書生体を装った男がその後を追い初めた。その三人のために、そして恐らくまた他の者のために、群集はかき乱され初めた。非常な混乱を来した。それに乗じて巡査と兵士とが正面から圧迫して来た。群集は一瞬のうちに四散してしまった。
私は電車通りを広小路の方へ歩いて行った。通りは次第に薄暗くなった。線路の真中を提灯をつけて走って行く男があった。並木の影や横町の角に、黙々として佇んでる群があった。それらの人々の顔も、須田町のより、また万世橋のたもとのより、次第に荒っぽく且つ沈鬱になっていた。腹掛をしてる者や尻を端折ってる者などが多くなっていた。
「わーッ」と声が上った。見ると向うから騎馬の兵士が駆けて来た。然し彼はそのまま万世橋の方へ駆け去ってしまった。あたりは再び静になった。
何か人々がどよめく気配がしたので顧みると、三人の男が争っていた。横町の角の所に電柱が一本立っていた。横町には群集が一杯だった。三人の男はその先頭に立っていた。一人は電柱にしがみついていた。黒い着物を着、帽子も被らず、跣足《はだし》のままだった。それを、鳥打帽に駒下駄の二人の男が、しきりに電柱から引離そうとしていた。一人は眼鏡をかけていた。「痛い。」と電柱にしがみついている男は叫んだ。それから必死となってなお電柱に取つきながら泣き声を立てた。「御免なさい、悪い気でしたんじゃない。……おう痛い。ひどいことを! 御免なさい。」私はその男を何ということもなく、牛乳配達夫だと思った。
そういう風に泣き声に叫んでいる「牛乳配達夫」を、二人の鳥打帽の男は鷲掴みにしていた。「ともかく其処まで来い。」と彼等は鋭い声で云った。そして駒下駄で一つ男の向う脛を蹴りつけた。「痛い!」と男はまた叫んだ。一人は彼の左肩を捉え、一人は彼の右腕を無理にねじ上げた。彼は額に油汗を流してなお抵抗した。然しやがて二人の力で電柱からもぎ離されてしまった。ねじ上げ
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