当次第のものを持って、あちこち駆け廻った。
 長い間のようでもあれば、短い間のようでもあった。すさまじい物音がしたので、皆あっと息をつめた。そこへ父がやって来た。
「家は大丈夫、騒がないでいい。」
 それでも僕は気になって、台所の方へ飛んで行った。外に出てみると、隣家が半ば焼け落ちたところだった。濛々と渦巻く火の焔が立って、一丈ばかり上から先は、真黒な中に無数の火の粉となっていた。それがみな家と反対の向う側になびいていた。ぱらぱらと雨の降るような気配に気がつくと、あたり一面に水だった。蒸汽ポンプが来て、隣家は四方から水を浴びていた。その余沫が頻に飛んで来るのを覚えると同時に、顔一杯に火のほてりを感じた。そしてあたり近所の騒ぎに、耳がごーっと遠鳴りするようだった。垣根も半ば壊されていて、消防夫が駆け廻っていた。
 僕はまた家の中にとって返して、父と同じように、「大丈夫だ、大丈夫だ、」とくり返した。それから皆一緒になってまた裏口から覗きに来た。隣家の火勢は強かったが、危険の度はへっていた。皆震えながらぼんやりと立っていた。
 火事は隣家を焼いただけで済んだ。そして僕の家は、垣根を壊されたくらいの損害だったが、公孫樹は隣家に近く聳え立っていたので、火気と火の粉とを受けて、憐れな姿になっていた。まだ青々としていた葉は、小さく焦げ縮れてしまって、殊に隣家に面した方は、可なりの枝まで焼け枯れていた。そして幹の半面には、一間ばかりの長さに大きな傷を負っていた。とても助かりそうになかった。
 然し父は、なお公孫樹を見捨てなかった。植木屋を呼び寄せて、すっかり手当をしてやった。
「この木のために家は救われたのだ。」と父は云った。
 実際その公孫樹の茂みがなかったら、家はもっと直接に火気を受けて、或は大事に至ったかも知れない。父ばかりでなく皆の者も、一種の感謝の念を覚えたのだった。
 そして公孫樹は、枝をすっかり切り落され、全部藁包みにされて、庭の隅に淋しくぽつりと立っていた。植木屋も助かるかどうか分らないと云っていた。でも父は確信があるらしく、垣根の修繕の時にも、公孫樹に障らないようにと頼んでいた。
 その父自身がまた、当時は誰も気付かなかったが、頭をひどく柱にぶっつけて、それから一種の神経衰弱みたいになっていた。あれほど沈着だった父が、どうして頭を打っつけたのか、皆の者は不審に思っ
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