。彼は有名な梯子酒で、夜の二時までも三時までも、凡そ酒を飲ませる家が起きてる限りは、私をつかまえて放さなかった。
或る晩、やはりそうした彷徨の後、私達はすっかり酔っ払って、夜遅く街路を辿っていた。すると、彼はふいにその電車通りから、薄暗い横丁へ切れこんでいった。暫く行くと、とある家の前に立止って、その表戸をどんどん叩き初める。
「僕の友人がいるから一寸寄るんだ。」
然しいくら叩いても、家の人は起きてこない。
「馬鹿によく眠ってやがる。」
彼はあきらめて歩き出す。そして四五軒先に行くと、また立止ってそこの家の戸を叩き初める。やはり友人がいるのだそうである。
そういう風にして、彼は四五軒おきによその家の表戸を叩いていく。もう二時頃で、町中はしいんと寝静まっている。どこも起きてくる家はない。やがて、或る板塀の中に明々と光の見えてる家に出逢う。
「一寸待っててくれ。」
私にそう云いすてて、彼は板塀を易々と乗り越してはいっていく。五分……十分……ふいに彼は私の前に、板塀の上から飛び出して来る。
「うまいお茶を飲んできたよ。……だが、あいつ、変な顔をしてじろじろ見るから、飛び出してきてやった。」
ははんと私は思うのである。そして二人でからからと笑い出したのであった。
*
或る時、新城和一君が風のように飛びこんで来て、下手な将棊を五六番やって、また風のように飛び出していった。
飛び出していく時、梯子段をとんとんと子供のように馳け下りて、そのはずみに玄関の障子につき当って、立ち直りざま、ひょいと沓脱石の上の下駄をつっかけ、「さよなら、」という声と共に、玄関に揃えてあった他の二三足の下駄を蹴散らし、格子戸にごとりとつき当り、格子戸の敷居に躓き、そのよろけたはずみで、表の戸をがらりと引開け、戸と柱と敷居とに身体中でぶつかって、あっと思うまにもう戸を閉めて、ぷいと消え失せてしまった。
「まあ!」という気持で見上げる妻の眼付に、私はくくっと忍び笑いで答えたが、心は嵐の吹き過ぎた後のように惘然としていた。
*
震災前のことだが、芥川竜之介君と私とは共に、横須賀の海軍機関学校に教師をしていた。学校の運動場がすぐ海に続いていたので、隙な時間にはよくその海岸を散歩した。
或るうち晴れた日の午後、私はまた芥川と一緒に海岸を歩いていた。よく凪いだ海が干潮にな
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