屋から半里ばかり行ったところに、昼間でも暗い森があった。それにさしかかった時、彼はふいにびくりとした。とたんに、森の木影から小さな姿が、提灯の光を受けた闇の中から、ぼーっと浮び出してきた。また気のせいかな、と思いながら二足三足機械的に進むうち、そいつが大きく伸び上って、森の梢までもとどきそうになった。ぞーっと髪の毛が逆立つ思いに、彼は却って無鉄砲になって、やっつけてやれと、手綱を一つぐいと引きしめながら、すたすたとぶつかっていった。が……何の手答えもなく、馬も荷馬車も影のうちに呑みこまれてしまって、しいんとなった。彼は無我夢中に森を駆けぬけた。
冷たくねっとり額と背中とに汗をかいていた。手綱を取ってる左の手の甲で額を一拭きした時、細かな雨が降ってるのに気付いた。そして何気なく空を見上げて、その眼をやった彼方の山裾に、ぱらぱらっと……消えたりついたり、よく見ると美事な狐火が、一面に押し動いていた。
おや。
見とれた瞬間に、何か明るい晴々としたものが、ふいに彼の胸の中に飛びこんできた。彼はあっと眼と口とを打開いたまま、思わず提灯を取落してしまったが、それから先はもう覚えないで、狐火の方へ足を宙に駈け出してしまった。
真暗な中に取残された馬は、嘶きもせず慌てもせず、暫く其処に立っていたが、それからことりことり荷馬車を引いて、通い馴れた街道を自分の家の方へ、そぼ降る雨の中を帰っていった。
彼の家では、一番年上の十二になる子供が、表の戸がごとりごとり叩かれるのを聞きつけて、立っていって戸を開けると、にゅっと馬の頭がはいってきた。たしかに自分の家の馬で、荷馬車を引いて、雨に濡れてしおしおとした悲しげな眼付をしていた。
彼の姿は見えなかった。
家中の者が騒ぎ出した。やがて町の人達も騒ぎだした。噂は界隈に拡まった。がいつまでたっても、彼は戻って来なかった。それらしい姿を見かけた者もなかった。
のっぽの三公の消息は、それきり全く分らなかった。或る古老から聞いた通りに、この話を綴ってる私自身にも、勿論分りようはない。
底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2[#「2」はローマ数字、1−13−22])」未来社
1965(昭和40)年12月15日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年11月27日作成
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